小田原城をぐるり取り囲む陣は、既に一つの巨大な城下町であった。将達は競い合うように妻子を呼び寄せ、茶会を催しては互いに交流を深め合う。
茶など数える程度しか嗜んだことのない自分だが、彼の人の点てる茶は如何許りであろうか。
碌に茶道具の名も知らぬのにそんなことを考え出した己に気付き、幸村は槍を振るう手を止めた。小田原城どころかそれに寄り添うように広がっていた町並みすら呑み込むように膨れ上がったこの陣はどこか歪で、それがまた幸村を暗澹たる気持ちにさせる。
最近はずっとこんな感じだ。このような人気のない陣の外れで槍を振るっては、それすら集中できずにぼんやりする。
「すまぬ。邪魔をしたか」
力なく槍を下ろした背に投げられた声に、いえ、と答えながら振り返り、思わず幸村は絶句した。
いつ如何なる時でも手放したことの無い槍を自分は取り落としそうになっている、動揺の余り。そう自覚した瞬間、何故か涙腺が決壊しそうになり、慌てて笑顔を作る。ちゃんと笑えているだろうか、兄に気丈な笑顔を見せるくのいちのように。
目の前の政宗は、数日前に目にした不遜な笑みも横柄過ぎる態度も纏っていなかった。
鍛錬の邪魔であったなら申し訳なかった。
きっぱりと告げる政宗の声には何の含みもなく、偶々の邂逅、それ以上でも以下でもないこの状況に自分は何を期待していたのだ、そう自嘲しながらも幸村は絶望せざるを得なかった。戦なのか物見遊山なのか既に判別つかぬこの陣の中で、具足を付けたままの政宗はとても好ましく思えたが、それも一瞬のこと。政宗の隻眼が此方を射竦めているのを感じて、幸村は只俯いた。咽喉がからからだった。
「ああ、真田の」
「幸村、です」
しかし、政宗の声を聞いた瞬間、幸村は顔を上げ叫ぶようにそう告げた。出自も何も含まれぬ、只名前のみの紹介。挨拶すら略されたそれを政宗は顔色一つ変えずあっさりと受け取る。
「真田幸村殿であらせられたか。そのご武功、しかと」
聞き及んでいる、とでも続けようとした政宗の言葉を遮って幸村は口を開く。
それが如何に無礼なことであるかなど考える暇も無かった。
「ゆきむら、です。伊達政宗どの」
指先の色が無くなるほど槍を握り締め、上ずった声でそう言った幸村の顔をたっぷり注視した後で、政宗は小さく頷いた。
「ゆきむら」
意地の悪そうな笑みを浮かべた政宗の口が自分の名前をゆっくりなぞるのを、幸村はぼんやりと聞いた。名を呼んで欲しい。咄嗟にそう望んだのは自分なのに、これは何の冗談だ、頭の中で声がする。
極端に狭くなった視界の中、僅かに後退った幸村をせせら笑うように政宗がじわり距離を縮めた。遠慮がちに風に踊った鉢巻の先端を、政宗がそっと捕まえる。
「のう、ゆきむら」
政宗の指はきっとすごく冷たいのだろう、幸村は何故かそう思った。その指は、政宗の強すぎる視線の所為でじくじくと溜まってしまった自分の熱を優しく吸い上げてくれるに違いない。
そんな幸村の妄想など知ってか知らずか、鉢巻にそっと口を寄せて政宗が囁く。
「つまらぬ戦じゃ。だが、死ぬなよ、幸村」
そこまでだった。
自分は確かに踵を返し遠ざかる政宗を見送ったと思うのだが、覚えているのは耳の奥でどくどくと五月蝿いまでに響く鼓動と、それに合わせて政宗が自分を呼ぶ声だけ。槍はすっかり地面に転がっていて、幸村はへたり込むとのろのろと頭の鉢巻を外した――好きになっちゃったんだもん、しょーがないよ。
「だから、一緒になんて、行けぬのか」
ああ、全然分からない。だが口に出してみればそれは物凄い説得力だった。地面が歪むどころか、忽然と消えてしまったかのような。地が無くば共に歩める筈もない。名を呼び、呼ばれるということは、こんなにも痛いことであったのか。
信幸の名を口にしないくのいちの気持ちが痛い程分かった。
「何が分かったんですかあ?もーやだなー、気安く分かった振りなんかしないでくださいってば」
どのくらいそうしていたのか、気付けば辺りはすっかり闇に包まれ、彼方の幽かな篝火に輪郭を浮き上がらせたくのいちが、腰に手を当てて自分を見下ろしていた。相変わらず口調は巫山戯ていたが、含まれているのは紛れもない怒気だ。
「一緒には行けない、そう諦めたのはそなただったではないか」
何でこんなに所在が無い?いや行方が無いというべきか、胸に穴が開いて中身を全部ぶちまけてしまったような。馬鹿にしないでよ!くのいちが叫ぶ。分かってない、幸村様は何も分かってない。
「あたしの気持ちを諦めたり捨てたりしていいのは、あたしと、信幸様だけだよ」
兄の名を呼ぶ前にくのいちが一瞬息を呑んだ気がして、幸村は腰を浮かしかけたが、脱力しきった身体はぴくりとも動かなかった。
一緒になんてしないでよ、ちゃんと分かってあげてよ。
顔をぐちゃぐちゃにしたくのいちが胸に飛び込んできた。ねえ、はぐらかそうとして悪いこと考えちゃうの、幸村様の悪い癖だよ。子供のように幸村の首にしがみ付いて、くのいちは泣く。
「嬉しかったでしょ?自分も世界もばらばらになって消えてなくなっちゃってもいいって思うくらい、嬉しかったよね?」
あの口が自分の名前を紡いだら、それはこの上ない至福だと思ったのだ。それは何も間違ってなかった。
ただ吃驚するほど痛くって、それを受け入れるだけの覚悟もなしに幸福を望んでしまった自分が許せなかった。
「あたし、知ってるもん。間違ってたから痛いんじゃないよ。本当はもっとずうっと痛いんだよ。そーゆーの、幸せっていうの」
あたしは幸村様を守るよ。そんで死んじゃっても、しょーがないよ。でも幸村様の為に生きてるんじゃないし、死ぬ時はきっと、違うこと、思い出す。
「笑ってあたしを見送る為に、だよ。そのくらい嬉しいことを手に入れるなら、ちょっとくらい痛くたってしかたないじゃん」
そう、嬉しかったんだ、何もかも。懺悔するように同じ言葉を繰り返す幸村の背中をくのいちがそっと撫でた。
「嬉しかった?」
「ああ、嬉しかった」
やっと動くようになった指先で地面を触ってみる。月すら出ていない宵、足元は真暗だが、何も無くなってなどいない。
ね、すきなひとができるって、すっごい嬉しいよね。くのいちが耳に口を寄せて言う。諦めちゃ、駄目だよ。内緒話をするように。
「あたしは隣に立つことも許されなかった。でも幸村様にはちゃんと出来るじゃない。話すことが、同じ言葉で」
夜の前に為す術無く立ち尽くす小さな子供のように、幸村とくのいちは抱き合う。そうやって自分達はずっと一緒に身を寄せ合って同じことを思いながら泣いてきた筈だった。悪戯を叱られた時も、はじめて戦場に立った時も。
だが今くのいちが泣くのは信幸の為だ。信幸を諦める為にくのいちは泪を流すのだろうし、自分は自らの想いの途方も無さに怯えて泣いているのだろうと思う。
ひとりぼっちになってしまった。くのいちは、自分と一緒に笑って泣いてくれる妹でも、ましてや半身などでもなかった。
でもそれがこんなに清々しいことだったとは。
気が抜けて溜息を吐こうとしたら、鼻先でくのいちが一足先に息を吐き出した。そうして二人同時に緊張感の欠片も無いような声を出す。「あーあ」凝り固まった想いを棄てる時にも、厳しい恋心を自覚する時にも、全く最適な言葉なんてそんなものだ。
「あーあ、きれいさっぱり諦められちゃいました」
何だかすっかり軽くなっちゃったよー幸村様。でへへ、と変な笑い声を立てるくのいちが、軽さの余り飛んでいっては大変なので、幸村は手を繋いだ。妹でも半身でもないけど、大事なものに違いはないので。なのにくのいちは、えらくさっぱりした顔で事も無げに言い放つ。
「幸村様が馬鹿だからいけないんですよー」
「馬鹿とは何だ、主に向かって」
「だって幸村様、馬鹿なんだもん。いっつもそんな調子だからイタイケなあたしは幸村様のことお兄ちゃんみたいだと思ったし、信幸様に普通に憧れちゃったんだよ」
それなら兄上だって同罪だろう。そんな幸村の言葉が終わらぬうちに、くのいちが抗議の叫びを上げた。ひっどい、幸村様、信幸様は馬鹿じゃないよー!
全く、酷いのはどっちだ。
「幸村様、そんなこと言っていいのかにゃー?」
くのいちが何かを思い出したように動きを止めた。口元を手で覆って含み笑いする姿に、幸村もたじろぎながら続きを促す。散々焦らされ、初恋の人をちょっと馬鹿呼ばわりしてしまった以上の報復をきっちり受けた幸村に、くのいちが耳打ちした。
「さっきね、伊達の殿様が来たよん」
幸村がそのまま固まった。いつ、何処に?何で?聞き返すことも出来ぬほど動揺している幸村をさっさと見捨てて、くのいちはてくてく歩く。
幸村は、いや真田殿は此方に居られるか?あんまりといえばあんまりな客が訪ねてきたものだから、つい好奇心を剥き出しにして揶揄ってしまったのだ。
今、いないけど?何だか落ち込んでるみたいなんですよー。
そう言ったら、それまで不機嫌そうにくのいちを睨んでいた政宗の顔色が変わった。細かいことまでは知らないけど、何かあったんだ。そう思ったから幸村を探し回った。
幸村様は何でも分かってくれるお兄ちゃんなんかじゃないけど、やっぱり幸村様を守るのは、あたしだから。
今からでも政宗どののところへ伺うべきだろうかいやしかし。槍を握って立ち尽くした幸村をやっぱり見捨てて、くのいちはてけてけ歩く。
そりゃ物音立てずに静かに歩くなんて朝飯前だけど。ぺたぺた、ぺたぺた。他の誰でもない自分が地面を踏む、その足音がくれる安心に包まれながら、くのいちは心の中で笑った。
今から伺うなんて冗談じゃない、本当、男の人ってみーんな馬鹿なんだから。
馬鹿の癖して天下とか戦とか、矜持とか義とか難しいことばっか考えてるから分かんなくなっちゃうのよ。もうこんな時間だとか、散々泣いてあたしも幸村様も目が腫れてることとか――誰が何を大事に思っているかとか。
ちょっと考えれば分かるのに。大体伊達の殿様が、一人で何しにあんなとこ行ったのよ。幸村様、知ってたんだって。あのちびっ子は、幸村様のこと、前から知ってたってゆったよ?
ねえ、大事にしてもらいなよ、幸村様。
ふと馬を止めて眼下に広がる景色を見ていたら、そんな昔のことを思い出した。
招きを受け奥州に向かう道すがら、ついでだから沼田にいる兄にも会ってから伺います、そう申し出たら渋々ながら承諾してくれた。「じゃが、なるべく早く来い」書状にそう認めた政宗の苦々しい顔が見えるようで、思わず顔が綻ぶ。
「あ奴は儂と豆州どっちが大事なんじゃーって叫んでましたよ」そんなどうでもいい報告と共に手紙を携えて奥州から戻ってきたくのいちは、そのまま信幸に書状を届けに走ってくれた。
こんな世の中じゃ、暇過ぎて手紙届けるくらいしかやることないですよう。そう言いながらもくのいちはくるくる動く。
沼田での一通りの挨拶を終え兄弟だけになった部屋で、信幸は柔らかく笑った。
「久しぶりにちよに会ったよ」
ちよは幸村と気が合うだろうとは思っていたけど、楽しく仕事をしているようで私も安心したよ。
そこまで言われてやっと気付いた。何て迂闊だったんだろう。そりゃそうだ、くのいちなんて名前があろう筈もない。
ずっと前、本当の名前をくのいちに聞いたら叱られた。「あのねえ幸村様、忍に名前なんていらないでしょ?名前があるって結構面倒だと思うよ、あたしは」したり顔でそう諭したのは、何処の誰だ。
「兄上はご存知だったんですね、彼女の名前」
「ああ、もう随分前のことだな。幸村もちよも、まだまだ小さかった頃くらいにね。こっそり教えて貰った」
いつかあたしが死んだら、みんなあたしの死体に縋って泣くの。くのいちって。そんなの、おかしくない?その時は、信幸様が言ってよ。
あたしの名前、みんなに教えてあげてよ。
お前はそんな昔から。幸村は慌てて口を噤んでそんな言葉を呑み込んだ。くのいち、お前は本当に知っていたのだな。名前を呼ばれる喜びも、その痛みも。
自分が死ぬ時に思い出す為の淡い約束、くのいちが今誰を思っているか、そんなことはどうでもいい。
ああ、本当は、自分が死ぬ時ですらどうでもいい、そんな。
「では兄上、長生きしなければ。約束を破ったらきっとくのいちは五月蝿いですから」
地面が消えてしまっても、世界がばらばらになってしまっても残ること。すっごい嬉しいよね。いつかのくのいちが、そう笑う。
そうだな、すごく嬉しいよ、くのいち。
お前が只々兄上を諦めた訳ではなかったことが。忍に必要ない筈の名前を教えた、その強かさが。信幸に最期の約束を取り付け、それだけを信じて生きていこうと思った彼女の潔さが、嬉しかった。
もう少しゆっくりしていったらどうだという信幸の厚意を丁寧に辞して、幸村は奥州へ足を向けた。
この分なら却って早く着いてあなたを吃驚させられるかもしれません。そうしたら私はあの時の鉢巻を懐から出して、もう一度驚かせてあげることにします。あれはずっとお守り代わりのようなもので、大事に大事に持ち歩いていたのですよ。名前を呼んで貰って、そうしたら。
幸村は考える。
そうしたら、私の大事な忍の話をして差し上げますね。忍の技もなかなかなのですけど、痛いことも喜びも、泣くことすら教えてくれた大事な娘なのです。
いつの間にかくのいちが音もなく追い付いて、幸村と並んで歩き出す。折角稲ちんとお茶してたのに!それでもしっかり菓子をくすねてきたらしく、歩きながらもごもご口を動かしている。
「そんなに早くあのちびっ子に会いたかったんですかあ?」
「ああ、そうだな。会いたくて会いたくて仕様がなかった」
いつもならしどろもどろの言い訳をする幸村が、あっさり笑ってそう言ったからだろう、くのいちがそのまま固まった。幸村様、熱でもあるの?聞き返すことも出来ぬほど動揺しているくのいちをさっさと見捨てて、幸村は通い慣れた奥州への道をてくてく歩き出した。
くのいちが大好きです。あと多分私は、何かを諦めた瞬間というのがすきなんだと思う。
つか、伊達は何で幸村のこと知ってたのかが謎。事前に可愛い子でもチェックしてたんですかね。
きゅん!この子可愛い!誰じゃ!みたいな。すいません。
(08/11/21)