幸村がおなごになったという根本的な変化はさておき、彼(彼女?)の身体からはそれ以外の異常は見つからず、「数日経ってもこのままならば改めて秀吉様にご報告しよう」という三成の言葉に幸村も不安げに頷いた。今は時が解決してくれるのを祈るしかない。
「しかし秀吉様は何と仰せになられるでしょうか?」
そう小首を傾げる幸村はぶっちゃけ可愛い。
己に降りかかった災難をまだ完全には実感できていないのだろう。時折まじまじと己の姿を見詰めては小さく溜息を吐く様も絵になるような。
憂いた表情に無垢さが加わって、思わずらしくもない慰めの言葉を掛けようとした三成だが、その後ろで政宗が物凄い形相で睨んでいることに気付いてやめた。それは奴の役目だろう。
秀吉のことは心から尊敬してはいるが、あの女癖だけは戴けない。普段からそう思っている三成は、とりあえず主の前にあの細君にまず相談しよう、そう心に決める。
おねね様なら悪いようにはしない筈だ。
「私がこうなってしまっては、真田の家は」
「大丈夫だ!幸村には自慢の兄上が居られるだろう!」
お前がそれを言うな。
悪びれもせずに言い放つ兼続に、部屋の空気が一瞬凍りついたが、空気も温度も読めぬ兼続には何の効果もなかった。
「…しかし私から槍働きを取ったら何も残りませぬ故、このような身体では」
「そんなことを思い悩んでいたのか!そなたの義姉上は女だてらに戦場を駆け回っているではないか!」
かつては信長公の奥方も妹君も武器を携え、夫の為戦働きをしたと言う!そなたの忍もそうであろう!全く女性は強い!先日など偶然邂逅した巫女に義を説いたら、いきなり番傘で殴りかかられ有り金を奪われた挙句、生死の境を彷徨ったぞ!
一番強いのはお船だがな!犬も食わぬ何とやらで私が叩きのめされた回数は、最早両の手では足りぬぞ!
これでは幸村を慰めているのか、己の恥を披露しているのか全く分からない。
「それは…大変なことでしたなあ…」
「それに女性であれば山犬と祝言を挙げることも出来よう!良かったな、幸村!」
「…」
兼続の言葉に、一瞬幸村が細い肩を震わせた。真田の家より戦場での働きより、何より先に考えてしまったのは政宗のことだった。こんな事態になってから政宗は、幸村の身体を気遣うような言葉を二、三口にしただけで、それ以外のことは何も言ってくれない。
己の立場云々より、まずそんなことで落ち込んでしまった自分が本当に嫌だった。だからと言って優しく慰めて欲しいのでも、勿論喜んで欲しかったのでもない。
「…兼続、それはまだ幸村の今後の経緯を見てからの話だ。俺達が首を突っ込むところではない」
後ろから鉄扇で殴りつけたいのをぐっと堪えて、三成が言う。「殿ってば大人じゃないですか」左近の軽口に、固まっていた空気が少しだけ動き出した気がした。
「おっと!私としたことが!それもそうだな!」
では後のことはゆっくり二人で話し合え!そう言ってこの騒動の元凶は三成の首根っこと左近のもみ上げを引っ掴むと、元気に退散していった。
「山犬には悪いが元に戻ることを祈っているぞ!全く申し訳ないことをしたな幸村!ようし、詫びの印に今から不義の水を私に押し付けた商人に会って解決策を聞いてくるとしよう!それまでいい子にしているのだぞ!」そんな叫び声を上げながら。
「ちょ、痛い痛い!自分で歩きますからそんなとこを引っ張るのは勘弁してくださいよ!」
「こら兼続、俺にはまだ仕事があるのだよ!離せ!」
「何を言うか!幸村の危機の前に仕事など放り出すが義!待っていろ幸村!」
悲鳴のような喧騒が遠ざかり、いよいよ聞こえなくなったところで、二人残された部屋には気まずい沈黙が落ちる。とりあえず向き直って座ったものの、息をすることすら憚られるような心持ちがする。
政宗と初めて褥を共にした時ですら、ここまで緊張しなかった。
いっそ逃げ出したいとも思ったのだが、誰かにばったり会ってしまいでもしたら。そう考えると動くことも出来ぬ。さて一体どうしたものか。
途方に暮れながらも、逃げ隠れることだけをひたすらに願っている己を心中こっそり嘲笑ったら、政宗が小さく咳払いをした。
今となっては随分昔のことのような気もするが、情を交し合っても二人だけで居ることに暫くは慣れず、そんな時、政宗はいつもそうやって困ったように空咳をしたり、もぞもぞと足を組み替えたりしていた。自分よりずっと聡い、あの饒舌な政宗が幼子のようだと噴出したら、笑うなと叱られたのだった。
煙管を取り出した政宗が、それを吸うでもなく、所在無げに弄びながら僅かに姿勢を変えたので、何だか苦しい程懐かしくなり、思わず笑みが零れた。
「…笑うな」
「ですが、政宗殿も」
到底自分のものとは思われぬ、だが意のままに動く細い指先で口元を隠そうとした時、存外指の皮が厚いことに驚いた。槍を握る為の掌は傷跡だらけで、今となってはもういちいち手当てすらしていないのだが、見慣れぬ白い手に残ったそれが僅かに心を満たしてくれる。
「正直、儂もまだ混乱しておるが」
政宗が頭を下げた。
「お主がああして庇ってくれて感謝しておる」
顔をお上げください――そう言葉を発したつもりだったのだが、出てきたのは嗚咽だった。幸村の異変に気付いた政宗が、伸ばしかけた手をすぐに引っ込め、それから舌打ちをする。
身体が変わってしまうと涙腺までおかしくなってしまうのか。
涙を堪えようと手を固く握る感覚も、噛み締めた唇の痛みも自分のものだというのに。
「…す、みません…」
「いいから泣け。途方に暮れた時にはそれが一番じゃ」
違うのです。
きっと三成殿が上手く秀吉様に報告してくださる。こうなってしまったことで変わってしまう諸々のことを左近殿と一緒に考えてくれるのは分かっているのです。
兼続殿はあんなことを言いながらも、きっと今頃必死で元に戻る方法を探してくれているに違いない。部屋を出て行く時に振り返った顔は、昔上杉に身を寄せたばかりで右も左も分からず唯おろおろとしていた自分を心配した時の顔にそっくりだった。
これまでと変わらず戦場に立つことだって出来よう。父上や兄上は驚くだろうけど、案外父上なんか娘が増えるのも悪くないと笑ってくださるかもしれない。
奇妙なことだと思うのだが、政宗と添い遂げられるかどうかも分からぬかつての姿の方が、それでも自信があった。
やはり姿形が変わってしまうと、涙腺どころか心持ちまでおかしくなってしまうのだと思う。
いつか、もしも立場が変わったとしても、隣に立ち、政宗の背を守るのは自分だと自負していた。仮令、敵味方に分かれたとしても、戦場で彼はきっと自分を見つけてくれる。何の疑いもなくそう考えていた己はなんと浅はかだったのか。
だって、少し姿形が変わっただけで、私はこんなにも私が怖くて堪らないのです。
止め処なく零れる涙を政宗が拭ってくれるが、一向に収まる気配はない。貴方様の前でこんなに無様に泣くような私ではなかった筈ですのに。
「大丈夫じゃ。兼続の馬鹿めが今頃あの水について話を聞いている頃じゃ。正体が分かれば直す方法なぞいくらでもあるぞ」
貴方だって、根拠もない慰めを易々と口にするような方ではありませんでしたのに。
「何だかんだ言うても、三成と左近が付いて居るから心配することなどない。糞、そんな顔をするでないわ」
あんな狐如きに何が出来るか、といつものように傲岸な笑みを見せてはくれないのですね。ああ、やはり違うのです。
痛々しい程真剣な表情で詰め寄っては、時折我に返ったように後退さる様がこんなにも愛おしいのだと、だから涙が止まらぬのだと言ったら呆れられてしまわれるのではないかと思うと、堪らないのです。
「あの猿親父だってお主の為に力を尽くしてくれるじゃろうて。昌幸は…何、いざとなったら兼続に腹でも斬らせれば良いことじゃ!介錯は儂が喜んでしてやるわ!」
私の為に見当外れなことを懸命に挙げ連ねる政宗どのが好きなのです。
精一杯腕を伸ばして何度も涙を拭ってくれる手を握り返したら、政宗が顔を歪めた。一瞬、泣き出すのかと思った。
あの時もそうだった。
互いの気持ちなんて分かりきっているだろうに、やっとの思いで、と言った風情で忍んできた政宗は、夜具の横に自分を座らせ、その前で何度も何度も馬鹿の一つ覚えのように好きだと繰り返したのだ。
「槍を振るう姿も、静かに笑う顔も、好きじゃ」そう言って暫く何かを思い出すような素振りを見せる。「口説き文句を散々考えてきたのに、忘れてしもうたわ」
大体お主が悪いのじゃ。
じっとしていただけなのに、何故かそうやって責められた。
「無害そうな顔してそうやって笑って居る癖に妙に頑固じゃし、腹の中は読ませてくれんし、時々吃驚するほど酷いことを口走るわ、全然甘えてはくれぬわ」
それは口説いているのではなくて、批判なさっているのではないですか?笑いながらそう返したら、「馬鹿め!そこが良いのが何故分からぬ!儂は大真面目に口説いて居るのじゃ!」と噛み付かんばかりに叫ばれた。
だから幸村は静かに政宗の手を取ったのだ。「もう、いいですから」あの時も、確か政宗は泣きそうな顔をしていた。
見当外れなことばかりだなんて、嘘だ。
「肉刺」
「まめ?」
幸村の手を取って政宗が呟く。
「肉刺、掌にあるじゃろう。これはそのままなのか。本当にお主は幸村なのじゃな」
何故か恥じ入って引っ込めようとした幸村の手を政宗が握る。強い力だった。
「何だか、安心したわ」
やっぱり、この人も自分も間違ってなどいない。
兼続はきっと今頃治す方法を聞いていて、三成と左近が何とか兼続の暴走を食い止めてくれていて、自分は途方に暮れていて、本当はこんな風に泣きたかったのだ。折角政宗が綺麗に拭いてくれたのに、その甲斐無くぽろぽろと涙が頬を濡らす。
「あーもう、仕様がないのう」
袖でぐいぐい顔を拭ったら、おなごはそんな風に泣いてはいかんのじゃぞ、と笑われた。つられて幸村も泣きながら笑う。
「どうやって泣けば良いのですか?」
「そうじゃな、少なくとも、そんな豪快に顔は擦らぬ」
「ではこのような感じですか?」
袖口を絞って目頭に当てたら、政宗が愉快そうに頷いた。なかなか上手いぞ、ひとしきり誉めた後、急に真面目な声音で政宗が言う。
「抱いても良いか?」
「嫌です。三成殿のお部屋ですし」
「な!即答か!今の流れは頬染めながら俯くところじゃろう?じゃのうて、こんなところで何もせぬわ、抱き締めるだけじゃ!」
「何もしなくても、帰ってきた部屋の主に抱き合っているところを見られるのは、嫌ですよ」
「それで良いのじゃ!大体三成め、一瞬お前に見惚れておったぞ。儂は見た!見たと言えばあ奴ら幸村の裸を見おったじゃろう…許さぬ!」
「脱いだのは私ですし、減るものではございませんし」
「減るわ、馬鹿め!」
政宗がそう叫んで立ち上がった。
「そういえば兼続殿は私の胸が小さいと仰っておりましたね」
「兼続め!あ奴どうしてくれようか!あんなエロ宰相のいうことなんぞ気にするなよ、幸村!」
全然気にしていませんし、兼続殿がエロ宰相なら政宗どのはエロ奥州王ですなあ。そう言おうと思ったのだが、面倒臭くなりそうだったので口を噤む。兼続の話題を出したのは失敗だったかもしれない。
「本当に目ん玉刳り貫いてくれる。あれは痛いぞ!いや、それだけでは生温い。市中轢き回しの上、儂直々に刀の錆にしてくれよう」がんがん地団駄踏みながら物騒な独り言をぶつぶつ呟いている。
「もう、いいですから」
「ちっとも良かないわ!大体お主が気にしなさ過ぎなのじゃ!」
「本当に、もういいですから」
うろうろと部屋中を歩き回る政宗の背中に縋り付いたら、やっと動きが止まった。
「抱いてくださるのではなかったのですか?」
「良いのか?」
良いも何も。やっぱりこの人は馬鹿なんじゃないかと少しだけ幸村は思う。
「抱かれるのが嫌な訳ではありませぬ。ただ、そのようにされて安心しきった顔を政宗どの以外の方に見られるのが嫌なだけです」
その言葉が終わるか終わらぬうちに、政宗が向き直ってきつく幸村を抱き締めた。ここまで言わなければ分からないなんて、本当にこの人は馬鹿だとこっそり確信する。
そんな幸村の心中知らずに政宗は腕に力を込めながら、愛い奴などと嬉しげに囁いている。さっきの怒りは何処へやら、本当に馬鹿みたいだ、独眼竜の名が泣きますよ。
でも、この大馬鹿者は自分にとっては最高だ。
「幸村、すまぬ!あの商人を締め上げて吐かせようとしたのだが、存外口が堅くてな!元に戻る方法が全く分からぬのだ!」
意外と早く大坂城に戻ってきた兼続は、そう言って畳に額を擦り合わせて何度も土下座した。
「正確に言えば兼続が締め上げそうになるのを左近が身体を張って止めた。兼続の武器に凍牙がついていた所為で凍り付いて凍傷になりかけ、更には動けなくなったところに無双まで撃たれて、俺は笑いを堪えるのに少々難儀した」
「ちょ、殿!殿が止めさせろって…!」
そう言われてみれば何処となくぼろぼろの左近の訴えを無視して、三成は淡々と説明する。
「ああ、商人は口が堅いというより、本当に知らないようだった。隠し立てする理由も意味もないしな。奴に聞くより文献などを浚った方が解決策が見つかるかと思いこうして帰ってきた」
「すまない!私の義不足で幸村には不自由な思いをさせることになって、本当にすまない!」
「すまないついでに、いっそ思い切り良く腹でも掻っ捌いたらどうじゃ、兼続」
「それはいい!この直江兼続、責任を取って武士らしく見事に腹を召してみせよう!介錯は頼んだぞ、山犬!」
「よう言うた!一瞬であの世に送ってやるわ!」
「…お前ら自害なら外でやれ。俺の部屋を汚すな。左近、止めさせろ」
「ええ?!また俺ですかい?」
他に誰が居る。そう吐き捨てて幸村に向き直った三成が首を傾げる。
私の為にわざわざありがとうございました、そう頭を下げる幸村は、先程とは別人のように落ち着いている。大方、政宗が上手いこと慰めたのだろう、俺が知ったことではない。
「という訳で、俺は今からこのような事例がかつて無かったかどうか調べてみよう。幸村は大事をとって部屋で休んでいろ」
「しかし調べ物でしたらお手伝い出来るかと」
「明日、医者をそちらに向かわせるよう手配する。他に異常がないと分かるまで大人しくしていてくれ」
心底心配そうな顔でそうまで言われれば幸村とて大人しく引き下がるしかない。「今日は儂が付いていてやる」そう言う政宗に頷くと、三成は冷たい眼差しを左近に向けた。
「…左近、何を遊んでいる。貴様も幸村を元に戻す方法を探しに行くのだぞ」
「殿が兼続殿を止めろって…!」
「そうだぞ、左近!この幸村の一大事に全く役に立たぬ奴め!不義!」
あんまりと言えばあんまりなこの扱いに、あの時もしも水を引っ被ったのが自分だったらもう少し優しくして貰えただろうか、そんな詮無いことを考えそうになった左近は、慌てて頭を振った。
自分が今の幸村の立場だったら、三成に指をさして笑われて終了な予感ががんがんしたのだ。
「あー。何じゃ、その…色々挫けるなよ、左近」
政宗の歯切れの悪い慰めが心に突き刺さる左近なのだった。
やっぱり続くよ。途中意外に幸村が悩みだして困りました。困っただけですけどね。
兼続だって一応心配はしてるんだ、一応。あと左近はこれでも殿に頼りにされている筈なんだ…!
(09/02/24)