二、長谷堂
関ヶ原にて東軍西軍共に撤退、決着ならず。この報を直江兼続は長谷堂の陣中で聞いた。
「これ以上の対陣は無用。すぐに撤退するぞ」
上杉家宰相の地位にあるこの青年は、この知らせに未だざわめく諸将を尻目にそう言い放った。
「しかし、最上勢は…」
「ふむ、城を出て追って来ると、そう仰るか」
周囲から当然だ、という声が上がる。兼続はしばしそれに黙って耳を傾けていたが、すっと立ち上がると朗々とした声を響かせて語り出した。
「最上が城から打って出られるのは、背後を脅かすものが居らぬから、ではないか?関ヶ原は我々に何をもたらした?豊臣の手から零れた天下を拾いに行った家康はそれに失敗した。つまり天は未だ誰のものでもない」
これに乗じて動く者が必ず出るだろう。少なくとも、兼続が良く知る人物に一人、思い当たる者がいる。
「言い方を変えよう。間もなく伊達から使者が来る。恐らくは和睦の使いだ。我々が伊達と組んだら、その後ろ盾を失った最上はどうするであろうな。…奴らにとって、それでも死兵を組織し、突っ込んで来ねばならぬ戦かな、これは」
伊達と結ぶかどうかは兼続の権限を越える決定である。
だが、此方が伊達と手を組む可能性を示してやれば、少なくとも最上は迷うだろう。その時間さえ稼げれば充分だ。上杉の兵達を安全に自国まで連れ帰ることは出来る。
「それでも念の為、殿は私が引き受けよう。こんな楽な撤退はないがな」
淀みない兼続の弁舌は不安を拭い去る。最早異論を述べるものは陣中には居らず、見事に統率された軍を率いて兼続は堂々と会津への撤退を果たしたのだった。
会津に戻った兼続を、その主・上杉景勝は珍しく笑みをもって出迎えた。主従というより盟友に近い二人ではあるが、景勝が兼続以外の者の前で表情を露にすることなど皆無に近い。
景勝が相好を崩したのは一瞬のことであったが、それが主からの全幅の信頼の証であるかのように感じられ、思わず頭を下げる兼続である。
長谷堂陣中で語った兼続の憶測はほぼ当たっていた。兼続が会津に到着したのと時を同じくして、伊達からの使いが来たのである。
東軍・西軍共に表向き軍備は解かれ、今は水面下の睨み合いが続く。だが、両軍共に関ヶ原のような大軍勢を組織する余力は一先ずなさそうだ。各地に収まった大名は、息を詰めて動向を窺っているという。
その中で徳川だけが慌しく動いているのが気にかかるが。
「兼続、一つ聞いても良いか」
この寡黙で聡明な主は、こういった口調を度々使う。単純に疑問を口にしているのではない、と兼続が気付いたのはいつからであったか。
主のこの言葉を聞いた時、兼続は景勝が既に伊達との和睦を決意していることを直感した。
「伊達と結ぶことはそなたにとって義か不義か」
義とは上杉が掲げる最大の行動指針である。義をもって動くことで信を得る。今でも軍神と崇められる故・謙信の教えを重んじる風潮は薄れていない。
伊達とは相容れない、それだけで動ければ話は早い。今すぐにでも使者の首を撥ね、それを引っ提げて再び軍を組織すれば良いだけの話だ。大義は幾らでも作れよう。
だが、そこには義は存在しない。
「義とは大切なものを守りたいという気持ちだと言ったな、兼続」
「如何にも」
「私が此度三成に付いた理由を教えてやろう。一つは故太閤から受けた恩義の為。この戦は私から太閤殿下への最後の馳走のつもりであった」
「はっ。己の野心ではなく義によりて戦をする。それこそ、謙信公の定められた是にございます」
「そうだ。…義父上が仰られていたのは、戦を起こす為の義だと私は思っていた」
偉大だった義父と己を比較して自尊心から無闇にもがいてみせる程、景勝は夢想家ではない。軍神・謙信と比べ、己が戦に際し人間離れした力量を持っているとは露にも思っておらぬ。故に景勝は聡明であった。
彼は自分が守るべきものをたった一つに決めた。それは上杉の家である。
上杉のもつ領土も民も家臣も全てそのまま抱え込み、いつの日かそっくり次代に渡す。その為に不必要なものは有無を言わさず斬り捨ててきた、そのつもりだった。
だがそれでも。
この戦国乱世に男として生まれれば当然のように持つ野望。天を戴くということ。
それは最も信頼できる家臣であり友でもある兼続にすら言ったことのない、景勝にとっては厄介なしこりのようなものだった。己の分で天を望めば、守れるものも守れない。
「混乱する地を天より抑えることと、その天を引っ繰り返すこと。どちらがより大変だ?兼続」
三成が関ヶ原に勝利し、このまま豊臣による政権を存続させること。景勝はそれを望んだ。もしも東軍が勝利すれば家臣らの存命と引き換えにあっさりと腹を斬ってみせる覚悟であった。
景勝が守るべきものの中には、己の命は含まれていない。
豊臣に付いた方が最終的には血が流れぬ、そう考えた上での選択だった。
「それが…景勝様が仰る義にございますか」
関ヶ原での結果は景勝にとって東軍勝利以上に最悪なものであった。長く続いた乱世で、この日ノ本自体が疲弊している。これ以上の乱は起こすべきではない。
と同時に、己の裡に燻る野心を探り当てられたようで、景勝は思わず唇を噛み締めた。
守るべきものの為に。最後まで己が捨て切れなかった私心を、天下への野望を捨てようと、そう決意する。
「今後上杉は一切動かぬ。ただ、この土地を、民を守るのだ」
「景勝様!では!」
「伊達と結ぶ。但し和議ではない。上杉は唯攻め入らぬとだけ伝えよう。伊達だけではない、上杉が今後自国の境を越えて他国に攻め入ることは無い。余程不義の徒が仇でない限りはな」
領土も天も関係なく、ただ義の下に動く。上杉は不義に苛まされる者達の要請があった時のみ動く軍となるのだ。
「……」
「この国を、民を、我らの義で守るのだ、兼続。いずれは他国もな。義父上が掲げられた義は、いずれ日ノ本を覆う指針となろう。私はそれを夢見ているのだよ」
軍神と呼ばれた義父は、尊敬に値する人物ではあったが、景勝にはずっと不思議だったことがあった。何故義を掲げながら戦を止めぬのか。それがどんな義戦であれ、確実に人は死に民は被害を受ける。
だが義父の夢見たものがその先にあるのだとしたら。義父は、戦を起こさぬ為の戦に明け暮れた人ではなかったか。
多弁な兼続が珍しく黙って頭を下げた。伊達への返事を認めねば。それが終わったら。
「兼続、偶には友として盃を交わさぬか。私は義父上ほど酒を好まぬが」
それはよろしゅうございます、そう言って兼続が浮かべた表情には覚えがある。義父が、上杉謙信がまだ生きていた頃の兼続の笑顔だった。
三成に左近がいたように、景勝様には兼続がいると信じてます。
兼続に押し切られる殿も好きですが、誰よりも義を見据え、誰よりも上杉を愛する殿が大好物です。
どーしてもこの二人は書きたかった…!またちょこちょこ出ると思います。
(09/04/10)