三、政宗出陣

 

 

ここ数日、真田の忍は嘗てない程に忙しい。
 
「何が天下分け目じゃ、のう幸村。わしらが忙しくなっただけのことじゃ」
 
父上がそうぼやく気持ちも良く分かる。幸村は傍に控えながら昌幸に苦笑を返した。
上田にて徳川本隊を足止め、そこまでお膳立てしてやったのに勝てぬとは。いっそ関ヶ原に急襲をかけるべきだったか、さも口惜し気にそう繰り返す昌幸だが、決して心が折れている様子はなく、それどころか一気に若返ったような印象も受ける。
さすがは父上だ、幸村は心中密かに舌を巻くが、そう思う幸村も顔色一つ変えておらず、忍がもたらした情報に些かの動揺もないことを示している。
 
 
 
徳川軍、三万の大軍をもって上田に進軍を決意。
 
関ヶ原があっけなく終幕を迎え、二月ばかりが過ぎたある日のこと。
その第一報を受けた時、真田家中の者はさすがに皆顔色を失った。先だって三万を超える徳川軍を散々に打ち破ったばかりである。関ヶ原での戦況を聞いた時に、既にこのことは覚悟していた筈であった。真田は今や徳川にとって憎い仇であり、また街道筋を塞ぐ邪魔な存在でもある。
 
しかし先の戦とは違い今度の戦には時間制限がない。いや、季節はいよいよ冬に向かっており、雪が手を貸してくれるやも知れぬ。だがそのようなことは判りきっているこの時節に兵を出すからには、徳川にもそれなりの覚悟があろう。
篭城が有効なのは、一定期間耐え続ければ何らかの勝機が見える戦においてのみである。それが望めなければ、矜持のみを引っ提げ死に体となって突っ込むか、城が落とされるのを待つだけだ。かといって此方は圧倒的な小勢。野戦ではそれこそ跡形もなく蹴散らされてしまう。
 
そんな緊迫した空気の中、当主である昌幸一人が楽しそうにしていた。
幸村もさすがに目に見えて動じはしなかったが、父のように振舞うことも出来ぬ。それで、何が愉快なのかと聞けば「たかだか兵三千の小城を落とすのに三万の大騒ぎとは、わしも偉くなったものじゃ」とけろりと返事を寄越した。
これには幸村も強張っていた頬を綻ばせる。
 
「はい、徳川が城攻めが苦手だというのも強ち嘘ではなさそうですな」
「家康自らのお出ましかのう」
「どうでしょうか。報告では身体を崩したとか…」
 
父子の会話はとても戦、それも圧倒的不利な状況の戦直前のものとは思えず、家臣達の力も一気に抜ける。それで良い、昌幸は誰にも気付かれぬように頷いた。この戦、最早勝ちはない、だが切り札がない訳でもない。そんな硬うなっておれば上手くいくものもいかぬわ。
 
 
 
 
 
徳川勢がいよいよ出陣したという話を受けた夜更け、幸村は昌幸に呼び出され父の部屋を訪れていた。
 
上田の民は出来る限り避難させることに決まり、城内の準備は着々と進んでいる。人の姿の見えぬ真暗な城下にはうっすらと月明かりが射し込んでおり、時折奇妙に映る影は路地に立てられた逆茂木だろう。これらは徳川の進軍を妨げるのに一役買ってくれる。
 
昌幸が徳川に対して立てた策は、やはり得意の篭城策だった。まずは徳川の出鼻さえ挫ければ凌げるやも知れぬという考えによるものである。
上田付近まで進軍してきた徳川勢に時折奇襲を繰り返し、進軍速度を遅らせ士気を下げる。
家臣には兎に角死んではならぬと言い含めた。僅かでもいい、徳川を混乱させ時間を稼げれば、昌幸が隠し持つ切り札を使う機会はある。問題は、その切り札が己の意のままに為り得るか、その一点だけだ。
折角纏まりかけていた天下が崩れたのだ、こんな面白いところで死んでなるものかという気持ちが昌幸にはある。徳川を唸らせた己の智謀には高値が付く。恐らくは息子の武勇にも。それを武器に、この戦を何処かの大大名家へ潜り込む為の布石とするのだ――そう例えば、伊達、だとか。
 
数日前、その伊達から書状が届いた時、昌幸は心中深く感謝した。
 
昌幸の方針を聞いたこの真面目に過ぎる次男坊は、最も危険な徳川本隊への奇襲の総指揮とその殿を、自らあっさりと志願したのである。幸村の性格を良く知る昌幸にとってそれは、半ば予想していたことであったが、その役目を請け負わせれば幸村の身はこれまでにない危機に晒されるだろう。
親の身勝手な愛情、しかしそれでも息子にそのような役目を負わせたくはなかった。同時に、真田当主としては幸村を用いることが最善の判断だということも分かっていた。
だがもしも幸村が、情人からの書状を見て考えを変えることがあれば、彼は一先ず生き延びることは出来る。それがたとえ僅かな期間であろうが。
 
あの子に限ってそれはないと思う。結局自分がどちらも選べず、判断を幸村自身に預ける形になったということも。
仕方がない、表裏比興と評されようとも、己の感情を全て制御できる訳ではないのだ。
伊達からの書状も徳川の動きの詳細な報告のみで、艶めいた文とは程遠い。
 
いよいよ来るか、そう考え書状を畳もうと手に取った時、宛名の文字が酷く不自然であることに気付いた。いや、己の名ではなく、息子の。
あの甚く達筆な、凡そ風流を絵に描いたような伊達男が何を思って幸村の名を記したのか。万感胸に抱いて震える指先で、このたった二文字を書いたのだ。恐らくは二度と書くことのないやもしれぬ名を。
この書状はわしが持つべきではない。
 
そう思って幸村を自室に呼んだ。
これを見て幸村がどう判断しようが、自分はもう口を挟むまい。
 
 
 
 
 
昌幸から書状を受け取った幸村は、長い間それを黙って見詰めていた。鶺鴒の花押と、その横に記された自分の名とを。
死ぬでないぞと口を開きかけたが、幸村が随分懐かしげな目をしていることに気付いて止めた。変わりにそっと席を立つ。
 
「その書状の処分は任せたぞ、幸村」
 
幸村はやはり何も言わず、そのまま頭を下げた。

 

 

 

公認の仲ですね。どうでもいいですが、伊達が全然出ませんな。
(09/04/14)