幸村は行軍する徳川勢を崖上から単騎、見下ろしていた。
さすがに三万を擁する徳川の行軍は酷くゆっくりしたものであるが、そこには大大名である徳川が小大名である真田をあくまで戯れに捻り潰すのだと世間に思わせるような演出めいたものを、彼は感じた。さすがは家康、そうでなくてはならぬ。
だがそれを逆手にとる。
関ヶ原で始まった乱世はこの戦によって確固たるものへと変わるだろう。
父・昌幸の練った策を幸村はかなり正確に理解していた。その為には、まず敗色濃厚な我が方の被害を最小限に抑えねばならぬ。これだけ大仰な戦を起こしても、真田を完全に捩じ伏せることが出来なかったのだということを見せ付けてやるのだ。関ヶ原での失敗も相まって、徳川の評価はそれで完全に地に落ちる。
大軍でもって小勢をあっけなく打ち破り、僅かな被害だけで真田父子の首と上田を手に入れる、そのような戦だけはさせてはならない。
幸村の目から見ても、徳川勢の士気はそう高くないように思われた。関ヶ原が尾を引いている。
それに加え、休む間も無く真田の小勢が奇襲を仕掛けてくる。奇襲と言っても大袈裟なものではない。藪から矢や鉄砲を射掛けてきたり、長く伸びた陣の合間を横切るような、本当に小規模なものだ。
しかしそれ故に真田にとっては動き易く、また徳川はまるで一定時間ごとに陣中で小火が起こっているような心持ちになるだろう。その程度では決して本気にならぬではあろうが、その積み重ねが身を滅ぼすぞ、幸村は馬首を返した。
上杉家当主・景勝の認めた書状を岩出山に届けたのは、その股肱・直江兼続その人であった。
「は?兼続が、あの馬鹿が自ら来たのか?」
それを伝えた片倉小十郎の顔をまじまじと見詰めて政宗がそう返す。
小十郎にさえ呆れられるほどこの二人は大層仲が悪く、今まで刃傷沙汰にならなかったのが不思議なくらいだ、家臣達は半ば本気でそう噂している。
さすがに表面上はまるで変わりない風を装ってはいたが、ここ数日、主の頭を支配しているものを小十郎は分かっているつもりであった。直江山城守兼続の御出座しとあらば、自分如きが対応する訳にもいかぬ。政宗自らが相手をするが当然、しかし何もこのような時に。
それ故、政宗の口から出た言葉を聞いた瞬間、小十郎が我が主ついに乱心かと思い顔色を変えたのも詮無きことであろう。
「よし、すぐ通せ!まさか兼続が来るとはな。これぞ僥倖というものよ」
「…あの、殿、直江山城守殿にございますれば…」
「だから通せと言うておる!愚図愚図するな!」
はっ、と頭を垂れ下がろうとした小十郎を政宗の声が更に追う。
「兼続如きに丁重にせんで良いぞ、それと」
――人払いを。
隻眼を鋭く光らせ、ぞっとするような声で政宗は呟いた。
「先だっての申し出において、我が主・上杉景勝の意思を伝えに参った!」
部屋に入ってくるなり開口一番、こうだ。機嫌伺いの言葉の一つもなければ挨拶もない、どころか頭すら下げぬ。だが一刻を争うような今の状況において、兼続のこの態度は政宗にとって正直ありがたかった。
「兼続。貴様、最上をどれだけ抑えていられるか」
「何だ、利に敏い山犬めが。此方の返答も聞かずに、相も変わらず猥雑な謀略か。独眼竜が聞いて呆れる」
そう毒づきながら、主よりの書状を手ずから差し出す兼続。人払いをなされた部屋には二人以外誰も居らぬとはいえ、些かの遠慮も感じられない。さりとて、その書状を傍らに打ち捨てつつ兼続を睨む政宗も似たようなものだ。
「貴様が来たのなら上杉の返答も自ずと知れよう…今日は貴様の挑発には乗らん。遊んでいる暇はない」
それまでうっすらと人の悪い笑みを浮かべていた兼続から表情が消えた。
「…何をする気だ」
「知れたこと、天に昇るのよ」
天に昇るには必要なものがあるじゃろう?まずはそれを手に入れぬとな。
短いですが一先ず。私は兼続が書けて満足ですが。
(09/04/17)