四、上田攻め
行軍の最大の敵は倦みである。将兵が僅かに抱いたその空気は、やがて全軍に伝わり士気を落とし、あり得ない負け戦の引き金となる。
「徳川めが、随分と余裕を見せ付けてくれるわ」
幸村にとって昌幸のその軽口だけで充分だった。小さな奇襲を幾度も受けた徳川軍には倦んだ空気が充満している。
功を逸る気持ちを嘲笑うかのように真田勢は手の届かぬぎりぎりのところから挑発を繰り返すのみ。
「家康が出ればまた話は変わったがな」
恐らく互いにとって誰より虫が好かない好敵手は、江戸城で自分と同じように拳を握り締めているのだろう。
関ヶ原以来、体調を崩して寝所に篭りがちであるという忍の報告が入った。「本当でしょうか?」幸村はそう首を捻ったが、恐らくは真実だ、自分にだけは分かる。病をおして発とうとした家康を、周りの者が押し留めたに違いない。そうでなければあの家康が、長い因縁に幕引く役目を他人に渡す筈はない。
上田の小大名に過ぎない自分は、天下を掴み掛けたあの男の最大の敵で、更には誇りであったのだろうから。
昌幸の中の勘が今だと告げる。自分が描いた筋書きを現実のものとする瞬間は、この時をおいてはない。
握り締めた掌が震えるのは武者震いかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。自分がたてた軍略を唯一理解してくれそうな敵がこの場にいないことに怒りを感じているのだ。この時機にあの家康を病で伏せさせた天に感謝どころか、恨み言の一つも言ってやりたい己を、昌幸は薄く笑った。まあ良い。
奴が戦場に立てば、目の前で槍を握って凛と立つこの息子には二度と会えないのだ。
「では父上、手筈通りに」
昌幸は戦場へは赴かぬ。幸村率いる隊がこれまでにない大規模な奇襲をかけ、昌幸は城で篭城の最後の支度に奔走する。
真田からの書状を受け取った伊達が、奥州で兵を挙げた。国境を越えいよいよ真田領に進軍しようとする徳川にもその動きは知れたであろう。
最高の機を見てあの若造は兵を挙げてくれた。先だって西軍、そして上杉が実行しようとした挟撃策の二番煎じではある。だが、この報を受けた徳川勢は、負けはしなかったもののあの苦い関ヶ原を必ず思い出す。
幾度かの小規模な奇襲で、徳川軍全体は倦み切っている。そして次の奇襲もこれまで同様、他愛ないものだとまずは思い込むだろう。上田を囲む為の布陣まであと数日であるという気の緩みもそこには重なっている筈だ。
死兵と化した真田がそこを叩く、叩き潰せるとは努々思ってはおらぬが、一矢報いることが出来れば上出来だ。
「頼むぞ」
頼むから生きて帰って来い、そう告げるのは酷だろうか。そう思っているうちに幸村の背は昌幸の視界から消えた。
息子を視線へ送り出した昌幸は、家中最大の難敵を思い出した。戦支度に追われついつい伸ばし伸ばしになっていた問題を片付けにいかなければならない。
昨夜も息子を前に軽く愚痴ってはみたが、案外冷淡なところがある幸村は、「それはお父上の問題ですからなあ」と軽く笑っただけだった。全くその通りだ、だが、そう正論を言われると、それはそれで腹が立つ。
「…山手はおるか?」
先程とは打って変わって気力が完全に萎えた調子の昌幸が、薄く襖を開けて妻の部屋を覗くと、その難敵が振り返った。
「まだ居ったのか。早々に実家に戻れば良かったものを」
申し訳ないとは思うのだが、ついついこのような物言いになってしまう。美しいが同時に、彼女が常に身に纏っている威圧的な雰囲気を挫く為、先手必勝を決め込んだのだが、あっさり打ち砕かれた。
「時勢も読めず自ら危機に陥った最低の夫の顔を見るまでは、私も逃げ帰れませぬ」
「…厳しいのう。徳川めに翻弄されるわしに、労いの言葉一つ寄越さぬか」
「そのようなものは貴方様が可愛がっておられる侍女にでも掛けて貰いなされ」
全く埒が明かぬ。これだから女は面倒臭い。
「支度は済んだか。不甲斐無くて済まぬとそなたの里の者には謝っておいてくれ」
「そのようなことはいずれご自分の口からお伝えなさい。私は城を出ませぬ」
さらりと発せられた山手の決意に昌幸は息を呑んだ。幸村に何処となく似た口元を綻ばせて、彼女は昌幸をじっと見据える。
戦であれば大概のことは思う侭なのに、この妻だけはどうも上手く操ることが出来ぬ。いや、彼女の言う意味さえ分からぬのだ。
「それに謝るのは私の実家にだけでございますか?」
「そなたにも苦労をかけたな」
「苦労はこれからかけるのでございましょう?転がり込んできた乱世に浮かれてあの徳川を敵に回し、挙句己の分も省みず城に篭り、城下を戦火に晒す最低の夫でございますれば、これまでのことは苦労などとは思っておりませぬ。そうそう、年甲斐もなく先日も新しい妾を囲われたことも」
いくら家康に恐れられようが、そのようなこと今の昌幸に何の意味もなかった。この女に口では敵わぬ。
思わず睨み付けたら山手がさも可笑しそうに、ころころと笑った。
「貴方様はこれからの世の為に今から最高の博打を打つのでございましょう。では私もそのようにさせて頂くまでです」
笑みを拭い去り、山手は厳かに両手を付く。
「どうぞ、ご一緒させてくださいまし。貴方様がその矜持を貫くと申されるのであれば、私にも筋を通させてくださいませ」
そう言って顔を上げた山手は、あんぐりと口を開けた昌幸を覗き込むようにしてまた笑った。
美しく笑むのでもなく、悲壮な覚悟を無理に隠すでもなく、してやったりという声が聞こえてきそうな幼い笑い方だった。自分の所為で、そんな顔を出来ることをずっと隠し続けているなんて、本当に女は、特にこの妻は面倒臭いと昌幸は思う。
「正直この戦にはまるで勝機はないのじゃぞ」
「まるで勝機のない戦にしがみ付くようなうつけではないでしょう。仮にそうなっても、時代を読み違え老醜を晒したと笑い者になるのは、貴方様のみにございますれば」
「言うてくれるわ。仕様がない、なんとか持ちこたえて見せれば良いのじゃろうて」
「まあ、お勇ましいことで」
その物言いにも腹は立たなかった。愛すべき息子も、信頼してくれる家臣も、父祖伝来の土地も民すら危険に晒し、家名よりも何よりもただこの乱世に名を挙げたい、己の才覚を試したい、その心がどうしても捨て切れぬ自分を、何処かで諦め蔑んでいた。
そんな自分の懐に思わぬところから入り込んできた最後の守るべきものが、気心知れたと世辞にも言えぬ妻であろうとは、想像すらしていなかった。
「あの子は大丈夫、きっと上手くやってくれるでしょう。貴方様もあの子も何一つ諦めてなどおりませぬ。私が育て上げ、貴方様が愛情を注いだ子でございますよ?」
賢しら顔で分かりもせぬ戦のことを勝手に楽観視するな、と昨日までの自分であればきつく申し渡したであろう。
出陣前に母上にご挨拶に伺いました、そう幸村が言っていた。自分が伝えてやれなかった親としての愛情に満ちた言葉を、山手は掛けてやれたのだろうか。いや今更そんなものは不要だったのかもしれぬ。彼女はきっと、真田昌幸の奥に相応しい気丈な態度で息子を送り出したのだろう。
「あの子も、いいえ、皆様が戻る場所は貴方様のところにございますれば。昌幸様」
嫣然と微笑み、だが妙にしっかりした口調で、山手はそう囁いた。
いらねえかな、とも思ったのですが、どーしても書きたかった山手ママ。
諸説ありますが、傍目にはパパと上手くいってるかどうかも定かではないママは、それでも夫と息子を愛してたと夢見たい。
それは当然、昌幸も。
(09/04/23)