湯本図書助が城の大手門に到着したのは、上田をぐるり囲む山に陽が落ちて二刻ほど経ってからだった。そのような時刻にも拘わらず、自ら門傍まで出迎えに出た昌幸に、図書は膝をつく。
 
「首尾は上々にて」
「そうじゃろうとも」
 
長年の主従は僅か数語の遣り取りで顔を見合わせ笑みを浮かべた。
 
彼らが居るこの上田は確かに二度も徳川の軍勢に膝を折らせた堅城だ。しかしそれも周囲に無数にある小さな砦あってのこと。徳川勢は真田の軍略の巧みさに加え、それら砦の重要性を骨身に染みて感じているに違いない。関ヶ原の時とは違い、此度は時間もたっぷりある。
上田城を孤立無援にする為に、彼らはまず砦を落とし、此方の陽動の芽の一切を摘むつもりであろう。昌幸にとってその作戦が時間稼ぎになるのは有難かったが、為す術なく手足をもぎ取られるにも似た状況に追い込まれるのは必至である。
 
「これで挑発され真直ぐ此方へ向かってくれば楽なのにのう。昔の作戦がそのまま使えるわ」
「ご自分でも期待していないことを仰られますな。それにそれでは面白くないとお考えで」
 
だからこそ、ここで徳川に真田は健在であると伝える必要があった。この度真田が挙げた戦果は目を見張るもので、まだ首級は確認しておらぬが牧野を討ち取ったと聞いている。此方の手が大当たりした、その事実に自然、二人の会話から程よく緊張が抜ける。
犠牲は多く出るだろうが、砦は最終的に明け渡すことになるだろう。が、山手にも啖呵を切った以上、手足をもがれ、如何ともし難い窮地に追い込まれるのは、ずっと後のことで良い。
 
「若殿は合流後、精鋭三十を率い本多へと向かわれました」
 
簡素な報告ではあったものの、図書の言葉には我が事を語るような幸村への誇りが感じられた。
父の見ぬ場所であの子は実に見事にこの局地戦を制したのだろう。我が子への心配を一先ず頭から追い出すと、昌幸は大きく頷いた。
 
奥州で兵を挙げたもう一人の若造は一体どうしているだろう。
共闘を約してはくれたが、上杉は、そして背後を狙う最上はどう動くのか。運良く上杉領を抜けられたとしても、その先には蒲生と結城が立ちはだかる筈である。やはり時間は稼ぐに越した方が良い。
 
 
 
夜半過ぎ、返り血と泥に染まった具足に身を包んだ幸村が帰城した。取るものも取り合えず駆けつけた昌幸に、幸村はけろりと言葉を寄越す。
 
「これは父上。まだお休みではなかったのですか。身を清め明朝にでも伺おうと思っておりましたが」
 
そう言って手に提げた包みをごとりと置く。
 
「取ったか?」
 
報告にあった通り、牧野康成の首かと思った昌幸は、幸村の応えに息を呑んだ。
 
「ええ。本多忠朝殿、討ち取って参りました。図書助が良く働いた後でしたので此方の被害は思いの外軽いもので済みました」
 
息子の腕からは、恐らくは返り血ではない鮮血が未だ滴り落ちている。足をきつく縛っているのは応急処置に違いない。
それでも足取りはしっかりしたもので、昌幸は今更ながら息子の胆力に舌を巻いた。
 
「三万もの大勢のうち、我々が蹴散らしたのは些少ではございますが」
 
些少どころではない。牧野隊を壊滅させただけでも想像以上の働きであるのに、それに加え本多まで潰走させるとは。期待以上の戦果に言葉を失う昌幸の沈黙を、別のことだと勘違いした幸村が、付け加える。
 
「牧野殿の御首は後で届くと思われます。あの場では捨て置くしかありませんでした故」
「…いや、ようやった。ようやってくれた」
 
戦において敵将の首が如何に重要なものとはいえ、戦況を無視してでも手に入れるべきものでもない。恐らく幸村は、康成を討ち取った勢いそのままに本多隊に突入したのであろう。凄惨な戦の情景が脳裏に浮かび、昌幸は知らず鳥肌を立てた。
本当に、よく帰ってきてくれた。
思わず満身創痍の息子に駆け寄ろうとして昌幸は、山手の言葉を思い出す。
 
「今日はゆるり休むが良い。傷はしっかり診てもらうのだぞ。それと――」
 
明日の朝はまずそなたの母の許に顔を出してやれ。
昌幸の言葉に、槍を捧げ持ったまま姿勢を正した幸村が破顔した。
 
 
 
 
 
昌幸の読みは正しかった。
 
幸村の活躍で被害を負わせたとはいえ徳川は大軍。取るに足らないような拠点と言えど見逃さぬと言わんばかりに、徳川は丁寧に上田周辺の砦を陥落させていった。真田勢も砦に篭り、良く奮戦したが、元より敵を迎え撃つことに向いていない砦では相手にならぬ。
いっそ例年より早い雪の訪れを願う昌幸だったが、それを嘲笑うかのように至極穏やかな気候が続く。
 
上田が徳川本隊に囲まれるのも、最早時間の問題であった。
 
次々と舞い込む過酷な戦況報告にも、しかし真田の士気は衰えることなく、皆が皆黙々と己の仕事をこなす。
この絶望的な状況の中、兵達の支えになっているものは、当主・昌幸の存在だった。この城で二度もの危機を乗り越えた彼ならば、目の覚めるような勝利を再び見せてくれるに違いない。この気構えは、徳川勢がついに上田を包囲する陣を布き睨み合う、そんな状況になっても変わらなかった。
もしや過去に二度もあったあの戦は、今この時の為の布石だったのでは。己の行動に尤もらしい意味を見出し、それらしい理由をつけることを潔しとしない昌幸でも、うっかりするとそんなことを思いたくなってしまう程、城内の雰囲気は澄んでいた。
 
「いくらわしでも、そうほいほいと策が飛び出してくる訳ではないわ」
 
彼らの無邪気な信頼に心中深く頭を下げつつも、表面ではそんなことも呟いてみたくなる。
隣で酒の酌をしていた山手が噴出した。
 
 
 
伊達との共闘の手筈について、昌幸は、家臣はおろか息子にすらまだ話していない。愚痴ついでに山手に掻い摘んで話しただけだ。
あの小倅め、信用出来るのか。そう盃を空けた昌幸に山手は、「私の里の者は未だに貴方様のことを嫌っておりますよ」と意味深なようで戦には全然関係ないことを言われただけだった。
慰めるなら慰める、尻を叩くなら叩くで、もっと適切な物言いがあろう。歓迎されているとは思っていなかったが、嫌われていたとは。
そんなことを気にする自分が少々可笑しく思えたが、そういうところも嫌われる所以です、とぴしゃりと言われる気がして、昌幸は口を噤んだ。
 
伊達が挙兵したことを幸村は掴んでいるであろうに、相変わらず表情の読み取り難い笑顔で、彼は父親にすら心中を打ち明けてはくれぬ。それは伊達軍という切り札を隠している自分も同じことではあるが、ただ余計な心配をさせたくはなかった。
 
眼前に広がるは、あの井伊直政率いる徳川の群れ。関ヶ原の時の傷をおしての出陣と聞いた。
つまり彼は傷も、家康の言葉にならぬ期待も無念もその身に抱いて昌幸の前に立ちはだかったということだ。易々と勝たしてはくれまい。雪の足音も、伊達からの報告も遅れている。
 
昌幸は盃を干すと勢いをつけて立ち上がった。為すべきことを全て為せば、待ちかねたものも自ずと訪れよう。

 

 

 

何があっても戦場では迷わない幸村は、ものっそ強いと信じてます。
(09/05/08)