五、佐竹
伊達と上杉が結んだ――正確には上杉は伊達に対して不可侵を決めただけではあるが――この知らせは非常な驚きをもって佐竹義宣の下に伝えられた。
「上杉と、伊達だと。信じられるか」
つい先程まで、天は豊臣と徳川の間で揺れ動いていたのだ。
義宣には家康への何の義理もなかった。一方の豊臣には大恩がある。
小田原攻めに駆けつけた義宣を、故太閤はわざわざ床机から立ち上がり義宣の手をとらんばかりに労ってくれた。
風流など解さぬ、上方に比べれば関東など田舎、学もあるとは言えぬ、だが鎌倉より続く坂東武者としての意気なら負けぬと豪語した義宣に、大仰に拍手を打ち喜んでくれた。世間では平壊者と称される三成も、佐竹には礼を尽くし一目置いてくれたのだ。
それが仮令、対家康の布石の一つだったとしても、三成の対応は実に誠意の篭ったもので、年若い義宣が清々しい快さを覚えたのも事実だった。
だが関ヶ原で起こった天下分け目の決戦で迷わず西軍につこうとした義宣を止めたのは、他でもない先代当主・義重である。
伊達政宗、二万の大軍をもって奥州街道を南下。
この第一報を聞いた時、さすがの義宣も笑って取り合わなかった。
政宗が天をも恐れぬ野心家であることは苦汁を舐めさせられた先の摺上原で、いやそれ以前から充分過ぎるほど分かっているつもりだった。だが何故今動く。今、だからこそか。
岩出山を出立した伊達軍は上杉領を悠々と通り、関東まであと一歩というところまで駒を進めていた。
伊達が徳川に正式に牙を剥いたのだ。
伊達・上杉、そして最上が作り上げたあの地の微妙な均衡は崩れた。
上杉征伐から関ヶ原へと至る混乱に乗じて掠め取った白石を、伊達は無償で上杉に返還したという。伊達と上杉、水と油ほどに相容れぬ者達が手を組んだことは、最早疑いようがない。
成程、竜は、余程天に焦がれているらしい。
「伊達の横腹を突け」
義重は二人だけの席で酒を舐めた後、義宣にそう囁いた。伊達には親子二代に亘る恨みがある。
東軍につくにせよ、或いは西軍に懸けるにせよ、関ヶ原前であったならば義宣は迷わずそうしたであろう。
「今一度、ゆるりと考えたい」時間がないのは分かっていた。恐らく伊達は上田を目指す。それもあの政宗らしい性急なやり方で。
徳川に攻められている真田を救い、奥州に伊達ありと知らしめた後で家康の首を狙う。上田にかかりきりになっていた徳川はすぐには全力を出せまい。伊達の最大の武器は迅速な用兵だ。恐らく、まず立ちはだかるであろう結城と蒲生を討ち、返す刀で家康の首を挙げる。
もし佐竹が行軍する伊達に横槍を入れれば、まず政宗の描いた筋書きは崩れる。
それとも――自分がここまで読むことを知っていて、政宗はあのような行動に出ているのだろうか。来るなら来い、と。
狡猾な光を覗かせる政宗の隻眼を思い浮かべ、義宣は拳を床に叩き付けた。
伊達だけであれば何とかなるやもしれぬ。だが、その後詰が上杉だとしたら、佐竹に勝ち目はない。
「佐竹は動かぬ」
白熱する軍議の中、ようやっと重い口を開いた義宣の言葉に、誰もが息を呑んだ。
この戦の大儀の在り処云々より、家臣らは伊達から与えられたこれまでの屈辱を晴らすことに気炎を上げている、そんな中での義宣の一言だった。荒々しい声が飛び交っていた軍議の場が静まり返り、やがて遠慮がちなどよめきに包まれる。
父が言ったことは正しかった。関ヶ原は、所詮水物であった。
だがあの瞬間、確かに自分の中の忠義は死んだのだ。心安い太閤の歓迎を受けたあの時、自分はこの方の為なら身命を賭しても良いと誓ったのだ。しかし結局、己は佐竹という家の為に身動き一つ取れず仕舞いであった。
故太閤は何とお思いになられるだろうか。
関ヶ原以降ずっと痞えていたその思いが、やっとのことで晴れるのを義宣は感じた。
「佐竹は、動かぬ」
五十三万石。
決意を再び口にした瞬間、その重みがずしりと全身にかかった気がした。
気が遠くなる程の古より父祖から受け継いだこの地。今の義宣が選択を迫られているように、家の去就を決める話し合いや諍いが、何度も何度も繰り返されてきたのだろう。
今、伊達に掴み掛かるは簡単だ。徳川に尻尾を振ることも、或いは豊臣に義理を貫くことも出来る。
「坂東武者の心意気を引っ提げ挑むは、簡単よ」
誰に、とは言わなかった。
「故太閤より安堵された五十三万石と引き換えにな」
伊達と敵対し小田原では手土産に城を落とし、その引き換えの五十三万石だと信じていた己は、何と若かったことか。
己の両手だけでは到底掴みきれぬ、いや想像も付かぬ日ノ本全体を抱き込んだ太閤は、その中から常陸を取り出し義宣の手に握らせたのだ。
義宣の働きに応じた報酬でも、風評通り気前が良いだけでもない。「守り通せるものならば、やってみせい」それは太閤よりの挑戦ではなかったか。
忠義とは、身分低き者が目上の者に捧げるものなどではなかったのだ。民が実りの為に田を耕し、兵が土地の為に戦うのであれば、己の忠節はそれを守ることに捧げよう。
「佐竹は残す。好機を逸したと嗤われようが、悪名を着せられようが、それが俺の忠義だ」
誰も、もう口を挟む者はいなかった。先代・義重ですら、息子の言に固く眼を閉じた。
大望を抱き乱世に旗を挙げるのも良いだろう。だがあの時、関ヶ原で果たせなかった、この国と佐竹という家への忠節を貫くは今しかないと義宣は思う。
「結城・蒲生の連合軍、伊達勢により潰走!」
遥か遠方の戦場からは次々と報告が入る。最後の戦機だった。
きっと、結城と蒲生は決死の思いで城に篭る。それを囲むであろう伊達を背後から。そこまで考えて義宣は首を振った。
私怨は流す。
誓紙を交し合った訳ではないが、かつては豊臣の為なら身も惜しまぬと固く手を取り合った上杉が、何故今になって伊達の動きを見逃すのか。
「殿、我々は一先ず沈黙を守る。それで良いのでございますな」
義宣の一の家臣であり同門でもある東義久が、低い声で囁いた。覚悟を含んだ良い声だった。
景勝公に兼続がいるのであれば、俺にはこの義久がいる。かつてたった一度だけ邂逅を果たしたあの主従の姿を義宣は思い出した。
にこりともせず、また一言も言葉を発しなかった景勝の眸は、人が焦がれそれ故に手が届かない天などではなく、人々が根差した地にしっかりと注がれていた。彼らは天の行方を見逃したのではない、見守っているのだ。
「義久、お前にとって天とは何だ?」
義久はそれには答えなかった。義宣の言葉を促すように、ただ目を伏せただけだ。
「俺の天は、この常陸五十三万石だ」
竜は、自在に飛び回れる広い天の夢を見れば良い。土地に、家に縋り付くが地を這う人の意地よ。
義宣にとっては物語にしか聞いたことのない、和睦直後の毛利に背を向け山崎へと駒を進める太閤の姿。胸中穏やかではなかっただろう毛利は、だがそこに確かに誇りを託し、祈りを捧げたに違いなかった。
人であるが故の意地を貫いたことを、あの聡明な上杉の主従と密かに讃え合う日がいずれ来よう。それが誰の治世でかは知らぬが、誇りを抱いた人は神にも負けぬ。
義宣は義久と顔を見合わせ薄く笑む。
それは最早予想などではない、確信だった。恐らくはそれを覚悟と武士は呼ぶ。
義宣にはどうしても三成と上杉好きイメージが…。
関東に出てくるに当たって、蒲生と結城と佐竹が立ち塞がったらもう絶対無理と思ったので、
佐竹はどうしても伊達に付かせたかったというか。
(09/05/14)