六、真田参陣
城攻めの寄せ手には少なくとも、守備兵の三倍が必要であるという。それをわざわざご丁寧に、十倍もの戦力を整えおって。
腹の中でそう毒づいた昌幸は、慌てて表情を正した。
篭城にあたっては指揮官の言動一つが命取りになることを、自分はまだ忘れてはいない。
上田城をぐるり取り囲んだ徳川の大軍の果ては見えぬ。夜ともなれば煌々と篝火が焚かれ、矢倉の上から見下ろしたそれは、まるで火の海のようだった。まだ何とか耐え凌いではいる。まだ、何とか――それは即ち、ひたひたと忍び寄る敗北を待つだけの言葉で、昌幸をもってしてもさすがにこれ以上の手はなかった。
あとは定石通り、味方の被害を最小限に抑えながら鉄砲を撃ちかけ、城門前で小競り合いを繰り返すしかない。
優秀な筈の真田忍すら徳川の包囲網を脱し、或いは戻ることが出来ず、城内の人手は当然のように足りない。
最早これ以上外を探らせても犠牲が増えるだけだ、そう判断した昌幸は、彼らに戦忍としての働きのみを命じた。
隠密行動を得意とする彼らが武器を握って人前に立つこと、それはつまり、自分達が相当際どいところまで追い込まれていることを意味している。
頼みの綱の伊達からの報告もずっと前に途絶えたきりだ。
この状況ではあちらからの使者も忍も阻まれているに違いなかった。
上杉領を通って南下中というところまでは聞き及んでいるが、上田に布陣する徳川の背後を脅かすには、結城と蒲生、そして佐竹を一つずつ潰す必要がある。あの若造の将器を数割増しで見積もったとしても、あと一月以上はかかるだろう。仕方ない、切り札とは己の内にあるからこその切り札であって、手持ちでない札を頼みにすることは運を天に任せるということだ。
目の前を負傷した兵が運ばれていく。城中を駆け回って兵達を鼓舞し、自ら槍を振るって先陣を切る幸村の体力も、もう限界だろう。
昌幸は最後の攻撃を指示しかけて、再び床机に座り込んだ。
まだだ。
戦は水物、数多の不利な戦を塗り替えてきた自分の勘が、まだだと言っている。
お仕着せの軍略よりも、最後の最後に昌幸が頼るのは自分の勘だ。
また一つ夜が過ぎ、東の空に余所余所しい陽が昇った頃、幾度目かの攻撃が始まった。それでも自分は此処に立っておらねばならぬ。全く城主とは割に合わぬものじゃ。矢倉から千曲川を挟んで対陣する徳川軍を見下ろした昌幸は、奇妙な気配に眉を顰めた。
何だ、この力任せの攻撃は。
大手門近くにいた筈の幸村が、息せき切って飛び込んでくる。
「父上、徳川が!」
幸村の右腕には矢傷が見て取れた。が、今はそこに構っている暇はない。
「総攻撃か?」
「ええ、しかし何故」
勿論これまでに何度も城を囲む徳川勢とは刃を交えてはいるが、このような大規模な攻撃はなかった。小城といえど無闇矢鱈な攻撃は、被害を広げるだけである。
昨日今日初めて戦場に立ったような者であればいざ知らず、この大軍を指揮しこれまで散々真田を苦しめてきた井伊が、まさかそんな方法を取るとは思えなかった。
「これに耐えれば勝機は見える。守りを怠るな、徳川が引いたら全力で追撃せよ!」
「はっ!」
徳川にとっては幸いなことに雪の気配は遠い。寄せ手の焦りが気候によるものでないのだとすれば、あの大軍に何かが起こったのだ。
今更考え難いが裏切りか、江戸にいる家康の病状が思わしくないか、或いは――過剰な期待はすまい、だがあの徳川には、不本意な力押しをせねばならぬ事情が迫っている。
「これが恐らく最後、弾は惜しむな!ありったけの矢を射掛けてやれ!」
兵達を激励する幸村の声が遠ざかっていく。
城が囲まれて早一月。その間にあの若造は本当に結城らを打ち破って関東の地を踏んだとでも言うのか。待ちかねていた援軍の筈、だが昌幸がまず感じたのは、恐れにも似た疑惑だった。
およそ二刻にも及ぶ激しい戦闘の後、徳川軍は潮が引くように徐々に撤退していった。
これは罠ではない。
槍で敵を薙ぎながら幸村は確信する。寄せ手の引き際、篭城戦においては唯一此方が優位に立てる瞬間を見逃す手はない。
城の西側、そして時を置かずして北側からの攻撃が止んだ。未だ東側で激戦を繰り広げているのが、この大軍の殿を担わされた部隊であろう。三万もの大軍とはいえ、その殿ともなれば僅か数千、敵も死兵だが此方ももとより命など捨てたも同然の戦、必ず押し返してみせよう。幸村は城の兵を東側に集中させた。
自ら敵を存分に引き付け合図を出すと、幸村の背後の門が開きどっと真田勢が押し寄せる。
「一兵たりとも逃がすな!包み込んで討ち取れ!」
混戦の中、幸村とて無傷ではない。先程矢を受けた右腕はずっと槍を振るっている所為で血が乾く間もない。決して深くはないが腿や脛にも数え切れぬ刀傷を負っている。辛うじて動く左足だけで馬を何とか動かしながらも、情けないことに息は上がりっぱなしだ。
しかし馬から降りれば槍の餌食になることは分かっていた。
ここは死に場所ではない――何より、徳川を撤退させたものが本当に彼の人なのかを見極めたかった。鬼神の如き幸村の働きに、徳川勢が浮き足立つ。
「今だ!追え!」
何故か痛みは感じなかった。それだけを叫びながら傍らの敵兵を突き、我先にと馬を進める。もう何人斬ったかさえ分からない。
撤退を始めた徳川勢の向こうに、北門から密かに回らせた小隊が見えた。先程幸村自身が指示し兵を伏せさせたとは言え、よくぞこの状態で駆けてきてくれた。
挟撃に為す術なく壊滅していく徳川軍を見遣る幸村の背後から、声が掛かる。
「若殿、ご無事で」
それは数日前、伊達の動向を探る為、密かに城を抜け出した忍の一人だった。
「そなたも無事であったか」
「伊達勢、結城・蒲生の連合軍を打ち破りて尚も進軍中」
「結城はどうした?」
「城に篭りて迎え撃つ算段であったところを、それを無視する形で…」
「まさか!では!」
槍を振るいながら報告を聞いていた幸村が、初めて忍の顔を振り返った。
確かに結城・蒲生は徳川にとって関東の地を守る要である。軽々しく城を出て追撃するのみが彼らの役目ではない。だが政宗にとって関東は既に敵地。上田を囲む徳川勢がきびすを返せば、結城らと挟んで討ち取ることは容易い。
どう考えても結城の足止めに隊を割くことは不可欠の筈だった。
「しかし結城は出てこれますまい」
「どういうことだ」
「伊達の後詰に上杉と佐竹が居ります」
「は?」
伊達が上杉と事を構えることなくここま来たのは分かっていた、だが。それでも忍の報告は幸村にとっては考えられぬことで、思わず此処が何処かも忘れて槍を落として頭を抱えるところだった。
呆気にとられる幸村を守るように刃を振るう忍の口元も緩む。
「私もこの目で見るまで信じられませんでした。が、自領ぎりぎりまで兵を出し結城城を遠巻きながら見張っておられるのは、彼らに他なりませんで」
「どういうことだ?」
「兼続殿、そして義久殿、それぞれ小勢ながらも陣を布き、ただじっとしておられます」
俄かに信じられぬことであったが――それぞれ数百の兵を率いた彼らは伊達に猛追をかけるでもなく、かといって結城の篭る城に攻め寄せる訳でもなく、不気味な沈黙を保ったままだと言うのだ。兼続に至っては、その兵数には明らかに多過ぎる旗指物を掲げ、物々しい警護を布いているらしい。徳川への明らかな示威行動であることに間違いはなかった。
彼らの布陣する地と結城城は、確かに城を囲むというには離れすぎてはいるが、これでは結城は軽々しく動けまい。
「成程、だから政宗どのは」
そこまで口に出したら、何故か先程まで気にも留めなかった矢傷が酷く疼いた。
右足からじくじくと伝わる熱に侵されながら幸村は、彼の人の名を呼んだのは一体どれほど前のことだっただろうか、そんなことを考える。ぼうっとする頭を振り、崩れ落ちそうになる身体を何とか立て直した頃には、もうこの地に立っている徳川勢は誰一人としていなかった。
「若殿、早く手当てを」
そう言って差し出される忍の腕を振り切って幸村が叫んだ。
「徳川は完全に撤退した。我らの勝利だ!勝ち鬨を挙げよ!」
やっとのことでそれだけを振り絞る。目は翳み、身体は鉛を含んだように重い。しかし勝利に沸く彼らを無事城に引き上げさせるまで意識を手放すわけにはいかぬ。
軽々しく口に出した彼の人の面差しを振り切るように再び僅かに首を振ると、幸村は勝利に沸く精鋭達に目を向けた。
「徳川は完全に撤退しました」
兵の手を借りて馬を降り駆けつけた昌幸にそれだけを言うと、幸村はその場に崩れ落ちた。
二刻以上も槍を持ち馬で駆け続けたのだ。この身に負った傷云々よりも、体力の限界だった。
その幸村の身体を周囲から伸びた幾つもの手が支える。具足を通してでも感じるその手のぬくもりに、やっと幸村は息を吐いた。誰よりも先に自分の身体を支えたのは、父である昌幸、その人に違いなかった。
「伊達の小倅めが来たぞ」
驚異的な働きを見せた息子にはこれだけでも伝えねばならぬと思ったのだろう。昌幸が小さく呟く。
実は知っていたのだと笑うことも、既に報告を受けたと頷くことも出来なかった。本当に来てくれたのだ。自分自身が交わした約定でもないのに、そう思うことが何だかおかしかった。
声が聞きたい、そう思ったらこの死地を脱したのだという実感が湧き上がってきて、身体の芯が揺さぶられるような震えを感じた。
「まさか本当に来るとは思わなんだがのう。上杉と佐竹を抱きこむとはな」
そなたもようやった。咄嗟に兵を集め、ついでに伏せさせ、あの大軍相手に三度目の大勝利じゃ。
父よりずっと大きくなった己の身体を支える昌幸を覗き込んで、幸村はようやっとで笑んだ。多分、自分は父にそっくりな笑顔を浮かべているのだろうと思った。
「策とは為ることが分かってはじめて、策なのでありましょう?」
「ぬかしおるわ、だが――」
聞き覚えのある台詞に昌幸が相好を崩した途端、幸村は気を失った。痛みと熱に浮かされ意識を手放す瞬間、幸村は確かに政宗の懐かしい声を聞いた気がした。
か、勝てたか…こっちもしんどかったよ…。
くのいちを出すことも考えましたが、昌幸の軍略に幸村の武勇、それにくのいちの忍の腕と情報収集力があったら
絶対負けない気がして…登場させられませんでした。
勿論、彼女は彼女で頑張っていると思うんですけどね。
上杉と佐竹が出てきたのは、結果的に伊達を助けることになっても、徳川に自分をアピールする、みたいな?(聞くな)
結城は出てくることも出来たんでしょうけど、むしろ自分達の城をとられることで奥州に対する関東の守りが崩れることを恐れて、的な。
上田の徳川と挟撃しても、結局真田が出てきたら仕様がないし、各個撃破されたらそれこそ意味がないので。
とか、なのかなあ。(だから聞くなってば!)
本当はここで小十郎とか出して彼が必死こいて結城を押さえるというのも考えたんですが、
今後の展開で彼はどうしても伊達軍にいて欲しかったのです。故に直江達に出張ってもらいました。
兼続はきっと一人でも騒がしいので、虚兵といえど結城も騙せるに違いないよ…。
更に補足すると、政宗に敵愾心を燃やしている兼続に、景勝様が自ら行って政宗の将器を確かめて来いとか何とか言ったんだと思います。
伊達が天下をとれるのであれば、兼続と政宗がいがみ合っていることに利点はないですので。
兼続は、上杉軍ではなく、あくまで直江の兵を率いて与力として参加すると思います。(まあ、それでも上杉である事に変わりはないんですが)
この話がどうしても突っ込めなかったので。こんなところで説明。がっかりです。
いつか、景勝様が直江を送り出す話を、番外編的に書きたいものです。口ばっかり!
(09/05/22)