七、高崎決戦
「やはり来おったか、竜めが」
伊達政宗が奥州を発った。あの時から家康はむしろこの時を待ち望んでいたと言っても過言ではなかった。
掴みかけた天はあと一歩のところで掌から零れ落ちた。
最早豊臣に力はない。だがそれ以上に、日ノ本に点在する対抗勢力を一つ一つ潰す時間が、恐らく己にはない。真の覇者に成り上がるには天下分け目と世に思わせる決戦で一気に片をつけるしか家康には、いや政宗にも手段は残されていなかった。
まるで厳かな儀式のように、両者は着々と、只管に駒を進めた。
決戦の地は高崎。
三万を擁する徳川軍は家康の指示通り、魚鱗の構えのまま沈黙を崩さない。前方に広がる伊達の軍勢を目の当たりにした時、家康は腹の底から怒りがこみ上げるのを感じた。
「小童め。やってくれるわ」
口の端に浮かべた筈の苦笑は、しかし笑みにはならなかった。
中央に翻るは白地に朱の丸、政宗の旗印である。
自軍同様、不気味なまでに静まり返った敵陣は、あたかも鳳がその翼を広げるが如く。
物見によれば伊達勢およそ二万。
敵兵の包囲に長けた鶴翼は、突破には弱い。数で劣る方がとる陣形としては定石とは言えぬ。しかしそのようなこと政宗とて重々承知の上であろう。
関ヶ原では三成が己の進退を懸けた手法、いやかつて自分もこの陣形に全てを懸けた。
家康の居城を無視し征西を続ける武田に、織田への義理も己の分も忘れ、安っぽい誇りだけを引っ提げ突っ込んだのだ。いくら此方が小勢とはいえ、背を向ける武田を包囲するのは造作もないことのように感じられた。突撃の命を下そうと軍配を振り上げた瞬間、その武田が一斉に振り返ったのだ。
夢を、見ているのかとさえ思った。
家康の眼前にあるのは、最早怠惰に行軍する兵の群れなどではなかった。挑んで来いとでも言いたげな、一部の隙もない見事な魚鱗。
これは負ける。
軍配が指から滑り落ちたのも気付かなかった。
徳川の翼も誇りも、あの堅固な鱗に突き破られ――
「三方ヶ原――政宗め、この家康だけでなく信玄公にすら挑むつもりか」
だがあの戦がなければ、己は今此処には立っては居まい。この堅固な魚鱗が貴様にも見ゆるであろう、政宗。
武田を真に踏襲したのは勝頼ではなく、この家康である。
何を臆すか、心理戦はもう始まっている。生涯最大の敗北は、最高の糧となったではないか。
家康は今度こそ軍配を握り締め、叫ぶ。
「兵を右翼に集めよ!真田を潰すのだ!」
合戦とは言え総勢五万の兵が一斉にぶつかる訳ではない。隊ごとに進退を繰り返し、方々で繰り広げられる局地戦の集合が戦である。此方が中央から押し出せば、いずれ両翼に押し包まれ壊滅させられる。
翼を押さえ込みつつ前線をじわじわ押し上げるしかない。
伊達勢の最左翼に真田の赤備え、その隣には政宗が股肱と頼む片倉小十郎の旗印も見える。政宗はあの二部隊を柱に徳川を押し包むつもりであろう。
「あれさえ押し込めば、勝てる」
まるでその言葉が合図だったかのように、軍勢が動いた。
短いですが、とりあえずここまでで。
家康メインだったのでついつい、伊達も真田も出すの忘れました。
…多分暫くは幸村出ません。折角会えたのにな!
鶴翼の左翼で頑張ってます。
(09/06/02)