伊達成実が備えを命じられた箇所は、前線ではなかった。伊達の斬り込み隊長を自負していた成実は、当然これに声を荒げて反対した。
 
「何を考えておられるか!本陣前は十重二十重に兵を配備しているとは言え、あの家康が正面から当たる筈なかろう!側面を切り崩されれば終わりだぞ!」
 
天下の趨勢を決めるこの戦で、己は最も安全な本陣脇でのうのうと物見遊山でもする為に進軍してきた訳ではないのだ。主従の枷も忘れ、思わず政宗の胸倉を掴もうとした成実に、政宗は底意地の悪い笑みを浮かべる。
 
「貴様には最高の舞台を用意してやろう」
 
その言葉に反応したのは成実ではない、政宗の傍らに軍師として控えていた真田昌幸であった。
息子・幸村が率いる左翼にちらり目をやると、再び徳川本陣に視線を移し呟く。
 
「成程、これならば狸も騙せるやもしれぬ」
 
昌幸の言に主は負けるつもりはないのだと分かっただけで、成実にはそれ以外の一切が分からぬ。政宗に向かって尚も怒鳴りつけるべきか、それとも昌幸に真意を問うべきなのか、一瞬迷った成実に政宗が言った。
 
「戦場では迷う暇などないわ、馬鹿め。儂を信じろ。貴様があの狸めの本陣を丸裸にするのじゃ」
 
これでは訳が分からぬままに頷くしか出来ぬ。
 
「何事が起きようと合図あるまで決して動くな。良いか、ただじっとして居るのじゃ。合図はほれ、そこの――房州が出す」
 
これには昌幸が目を見張った。
成実の動きはこの戦の趨勢を決める唯一の手である。それを軍門下って間もない自分に託すとは。
 
「狸狩りは慣れたものじゃろうて。お主の勘に儂はこの命と、ついでに伊達の家名を懸けてやる。そなたも命を懸けい」
「しかし、殿…」
 
政宗がこの陣を布いた時、まさかとは思った。息子が最左翼に配備された時、それは確信になった。上田城と真田の命運を救ってはくれたが、未だ伊達を心の底から信ずべきかどうか迷っていた昌幸にとっては、身震いするほどの感動だった。
 
この若造はあの老獪な狸が抱いた人生最大の恐れすら利用して、この戦を制そうとしている。
 
今頃家康は、かつて武田に味わわされた敗北を苦々しく思い出しているだろう。
幸村の赤備えは囮だ。家康の目がそこに釘付けになった瞬間、勝負は決まる。これだけの軍を擁することが出来れば、自分とてこの戦法を取るだろう。だが大将は己ではない。
 
「いくら儂でも老齢に差し掛かった房州に、本陣に突っ込めとは言えぬわ」
 
昌幸が感じたのは、あれほど渇望した家康の首に手を伸ばさんとする政宗への軽い嫉妬だった。それすら見透かすように政宗は笑う。
 
「己の手足は使わずとも、狸めの首をとるは貴様よ。軍師とはそういうものと心得るが」
 
己の主になって日も浅いこの若者は、今こそ宿願を果たせと言っているのだ。そうまで言われれば否やはない。
 
「御意に」
 
幸村の――この若造を選んだ真田の選択は間違ってはいなかった。昌幸は頭を垂れる。
その昌幸を促して共に配置に付こうとした成実に向かって政宗の声が飛ぶ。
 
「成実!」
 
それはまだ政宗が当主ですらなかった頃の、共に学び鍛錬し、時には酷い悪戯も取っ組み合いもした頃のような呼びかけだった。床机を蹴倒して立ち上がったのだろう。布陣して初めて自分の名を呼んだ政宗に、成実は己に与えられた任の重さを実感する。
 
それ故に振り返る訳にはいかなかった。勝つ為にはこの手段をおいて他にないと政宗が判断したのであれば、自分はそれに従うまでだ。
主ではなく旧友にするかのように、背を向けたまま槍を大きく掲げ政宗の言葉に答えると、背後からの空気が緩んだのが分かった。
 
「貴様が伊達の軍神になれ」
 
 
 
「己の手足を将兵に変えて志を遂げる者が軍師であるならば」
 
昌幸が言う。
 
「大将とは将兵の志を慈しむ者。良い主であらせられる」
 
 
 
 
 
激しい戦闘と喧騒の中、成実の陣だけが静まり返っていた。徳川は中央と両翼に兵を展開させ、じりじりと押してくる。
左翼の真田・片倉隊の猛攻で一旦伊達が大きく迫り出した形になったが、徳川も然る者。包囲は許さぬとばかりに多数の将を送り込み、真田隊の進軍を阻む。
 
「あと一度、一度で良い」
 
傍らの昌幸がそう呟いた。戦闘に入ってから彼は一度たりとも徳川本陣から目を離さぬ。一時、赤備えが大きく退いた時にも身動ぎ一つしなかった。
動くなとは厳命されたが、こうなるとどうしても血が騒ぐ。
成実を支えているのは、勝利に何の疑問も持っていないかのような昌幸の態度と、やはり静まり返った政宗の本陣だった。
 
とその時、左翼が大きく動いた。成実のすぐ前を声を張り上げた伝令が駆け抜けていく。
 
「片倉殿が榊原の御首、挙げられたとのこと!」
 
真田・片倉両隊の働き凄まじく、赤字に六文銭を染め上げた旗印が前に出た。左翼に続けとばかり、遥か右方では襲撃の音が間断なく聞こえる。
将を失い潰走する榊原隊を支援するため、中央の井伊が左に逸れた。
 
「今じゃ」
 
その喧騒の中で昌幸の低い呟きが鼓膜を震わせる。両翼に目を奪われていた成実は、大きく息を呑んだ。
道が、出来た。
伊達の両翼が徳川の多数の隊を引き受け、中央が僅かに押された所為で、成実の前に徳川本陣への道が浮かび上がる。そう思った瞬間、成実の足は思い切り馬の腹を蹴っていた。
 
「機は熟した!家康の首、挙げるは今ぞ!」
 
成実を追って走るは、政宗が考案した鉄砲騎馬隊である。馬上から銃弾を撃ち込み戦意を挫いたところを、成実率いる精鋭が駆け抜ける。昌幸が今頃、その後詰として奮戦してくれている筈だ。
そして政宗は、本陣で会心の笑みを浮かべたことだろう。
無人の野を駆けるように、成実は雑兵には目も呉れず徳川本陣を目指す。あれこそ、天がある場所だ。
 
「待たれい!」
 
戦場に響き渡った声に成実は手綱を引いた。馬が棹立ちになる。「軍神になれ」政宗の言葉が聞こえた気がした。
 
「伊達成実殿とお見受けいたす」
 
これぞ最高の舞台という訳か。
成実は眼前に聳え立つ堂々とした体躯の武士を不思議なほど静かに見遣った。その手に握られているは、名槍・蜻蛉切。
 
本多平八郎忠勝――徳川の、軍神だ。

 

 

成実の周りのBGMが変わった!

井伊と榊原をまた出してしまった…まだ戦の疲れがとれるどころか色々準備も出来てないようにも思うのですが、
でも徳川の四天王は超えなきゃならんと思ったんです。
あと、徳川との決戦では政宗より昌幸より幸村より、何よりも譜代の家臣たちを活躍させたかったのです。
ここからは成実大活躍。成実は書いててすごく気持ち良いです。だいすき!
(09/06/12)