ぶん、と低い呻りと共に突き出された槍を、成実は僅かに身を捻って凌いだ。左腕に湯をかけられたような痛みが走ったが、そのくらいならば慣れている。
決して素早くはないが、懇親の力で振り下ろされる蜻蛉切を辛うじて受け止めた成実は、年季が違う、痺れる両手に槍を握り直し、そう思った。
武人にしか分からない戦場での勘、相手がどう槍を繰り出し、どう避けるか。伊達の先鋒大将としてそれには確固たる自信を持っていた成実を持ってすら、忠勝の力量は凄まじかった。槍を握り直している間に、再び重い一撃が襲ってくる。
 
家康が両翼に兵を割き尚、落ち着いていられたのは、徳川が誇る軍神への堅固な信頼故だろう。しかし、ならばそれが分かった上で己一人をこの場に突っ込ませた政宗もまた、成実を信じるに値すると見たのだ。
一度戦場に立てば恐怖に身を竦ませることなどなかった。
しかし己が感じているのは紛れもない、徳川を背負って立つ忠勝への恐れだった。
 
だが引き返せぬ。取って返して他の隊と足並み揃え、再び忠勝に挑むことなど、もう出来ぬ。
成実の槍の柄は既に彼自身の血で染まっていたが、切先はまだ鈍い光を湛えたまま。それでも逃げ出さぬは、己の双肩に懸かった伊達の命運の為。
昌幸が言ったではないか。将兵の志をあの主は分かってくれる、と。それだけではない。古今独歩の勇士を討てる機会までお膳立てしてもらって誰がおめおめ逃げ出せようか。
 
蜻蛉切を気合諸共弾き返した成実は、返す刀で忠勝の腕を狙う。
槍を弾かれ、かわす動作が僅かに遅れた忠勝は、いっそ斬らせたところを討ち取ろうという魂胆なのであろう、大きく蜻蛉切を振り上げた。僅かに肉を裂く感触が掌に伝わり、そのまま成実は槍を振り払うとその勢いでもって右前方に素早く転がる。
立ち上がった成実が見たものは、先程自分が居た位置に深々と突き刺さっている蜻蛉切だった。
 
「この忠勝に傷を負わせたことを、誇れ」
 
鮮血の迸る左腕さえなければ、負傷したとは到底思えぬ忠勝の堂々たる声だった。
致命傷には至っていない。
一方の自分は血を流し過ぎている。辛うじて立っているのがやっとで、視界は極端に狭い。
 
だが、忠勝だけはくっきりと見えていた。
 
蜻蛉切を引き抜く忠勝の足を狙い下段に払う。飛びずさった忠勝が槍を突き出すのをいなして、柄で腹を叩く。あの忠勝が自分と槍を合わせ、肩で息をしている。槍を真横に構えた忠勝の懐に、成実は飛び込んだ。蜻蛉切が轟音と共に自分の胴を狙ってくる、その動きがやけにゆっくり感じられた。戦場に居るとは到底思えぬ静寂。ああ、自分は忠勝に討ち取られたのだ。そう思った瞬間、静寂が歓声に変わった。
 
「見事!」
 
死んだ筈なのに息苦しいのは何故だ。
ぱたぱたと水音が耳を突く。
それが自分の槍先から聞こえてくることに気付き、頭を上げた成実は、自分の突き出した槍が忠勝の胸に深々と刺さっているのを見て唖然とした。
 
「そなたこそ、天下無双の武士なり」
 
やはり堂々たる声でそう叫んだ忠勝の身体が傾いだ。槍が成実の指から零れ落ち、それを見てやっと自分の手が震えているのが分かった。どう、と忠勝の身体が地面に崩れ落ち、乾いた土埃が舞う。
 
「…俺は…俺は」
 
軍神になれたのか。
そう声を張り上げようとしたが、己のものとは思えぬ掠れた息が僅かに漏れただけだった。
成実の面被りの中は酷く暖かかった。泣いているのだ、と思った。なあ、梵天。「いい加減、その呼び名はやめい」政宗はそう言ったが笑っていた。一緒に企てた悪戯が成功した時のような顔だった。
 
梵天、俺は軍神になったぞ。
お前に天を見せてやれる、軍神になったのだ。
 
未だ震えが止まらない掌を握り締めて、忠勝から槍を抜く。
己に武士とは何かを教えてくれたこの男の為に、立ち止まってはならぬ。それこそが、自分がこの男に出来る唯一の手向けだと思った。
腹の底から振り絞るように、成実は言葉を紡ぐ。
 
「本多忠勝殿、伊達成実が討ち取った!目指すは家康の本陣だ!」
 
鬨の声を受け成実は馬に跨る。もう、震えも涙も止まっていた。
 
 
 
 
 
徳川本陣に張られた陣幕が、泥と血で染まっている。酷い乱戦の中、襲い来る刃を槍で弾き、家康は小さく笑った。
伊達め、よくぞやりおった。
闇雲に大声を上げて笑い出したい気分だった。
 
徳川の最後の砦、本多忠勝討死。
 
その報を聞いた時、家康は駒を引くのを止めた。
逃げて再起を図っても良かろう、いっそ潔く腹を切るのも悪くない。そう思いながらも家康は戸惑う近習に槍の用意を命じた。
逃げてどうなるというのだ。この老体に天を懸け奔走する時間はない。徳川の家名を残すことも最早許されぬだろう。
 
「三方ヶ原」
 
いや、それは建前に過ぎぬ。つくづく自分は三河武士なのだと思った。若い血気を矜持だと思い込み甲斐の虎に噛み付いて以来、偲びに偲んで己を律してきたつもりではあった。
だが老いに蝕まれた身体に尚滾るものを止めることなど出来ぬ。
 
混戦の向こう、成実の旗印の果てに昌幸の軍旗が見え、今度こそ家康は声を上げて快活に笑った。
成実でも伊達でも、刻々と迫る寿命ですらない。やはり最期に立ちはだかるはそなたか、昌幸。
真赤な旗が一瞬、高く掲げられた気がした。家康の傍らで懸命に刀を薙いでいた近習の一人が力尽き、倒れる。
 
あの時、政宗の鶴翼に三方ヶ原を思い描いた時、この敗北は決まっていたのだ。
 
「伊達の小童、いや、独眼竜めが」
 
大将首を討ち取らんと迫り来る伊達勢を睨みつけ、家康は呟く。
誰かが、この老人の戯言を政宗に伝えてくれれば良いと祈った。願わくば、その傍らで昌幸が、あのいけ好かない、底意地の悪そうな笑みと共に聞いてくれれば、と。
 
「信玄公がかつてその軍配をもって授け、わしが練りに練ってきた軍略を覆しおるとはな。見事よ」
 
眼前には槍を構え刀を握った雑兵の群れ。そうだ、そのまま踏み込んで来い。一睨みされた程度で腰が引けているようではこの家康の首は取れぬぞ。
「あと一歩じゃったのう」信玄はそう笑うだろう。会ったことなどない、聞いたことすらないその声が懐かしい。天下への未練も、やがて来る新時代への執着も感じなかった。上洛の途半ばで倒れた彼の人も、あるいはそうだったのやもしれぬ。
期待も未来も、業も、背負ってきたはずの背は軽い、恐らくは既に政宗が受け取ったのだ。この手に残されたものは握り慣れた槍の感触だけ。
瑣末な謀略も空しい戦も、託された先に描いたものも、まるでそんなもの他人事と言わんばかりの素知らぬ顔を見せながら、こうやって天は続いていく。織田も豊臣も、そして武田をも呑み込んだ己の首を、今こそその礎に捧げる時なのだ。
 
「竜が、遂に虎を超えたか」
 
その瞬間、脇腹に酷い違和感を感じた。家康を包囲していた雑兵が一斉に動く。天を仰いだら、真白な花弁がひらひらと舞っていた。
花か、いや雪だ――そう思った途端、家康の世界は閉じた。
 
 
 
 
 
慶長六年一月、高崎の役にて徳川家康、敗死。
二月、徳川秀忠は江戸城から小田原に撤退。同月、伊達政宗、江戸に入城。
 
近隣諸将への調略を続ける多忙な政宗の耳に飛び込んできたのは、豊臣が伊達に下る支度をしている、そんな噂だった。

 

 

忠勝を成実に討ち取らせたかったのですよ。
やはり伊達の中の成実の強さは外せなかった。いや、おいら成実ちん、大好物だからさ。

同様に、家康が乱戦で名もなき雑兵に討ち取られるというのもこっそり決めてました。
三方ヶ原と関ヶ原とこの戦いが辛うじて繋がってほっとしたきもち。

ここもすごくすごく書きたかったとこですが、いよいよ次から三成が出せます。
三成を書きたくてこの話を書いたといっても過言ではない。伊達も真田も出番少なくてすいません。
あと今更ながら、高崎周辺にお住まいの方、ご覧になってましたらすみません。街道筋調べてみたんですが、何も分からず…。
(09/06/15)