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あの関ヶ原から一体どれくらいが経った。
正則は己の両の手を目の高さに上げ思わず指折り数えようとして――ここが石田三成の、今正に滅びんとする城内の館であると気付き、慌てて姿勢を正した。
肉を喰らい、血を啜ってやりたい程憎んでいた相手は、正則の正面で胡坐を掻き、如何にも手持ち無沙汰といった調子で扇子を弄んでいる。
 
秀吉の前でも、いや無二の親友であろう吉継の前でも民草の前でも、無意味なほどに背筋を伸ばし視線一つ揺るがせずに座っているような男だった。表情を崩さぬよう懸命に努力し、実際表情は崩していないのに、周囲の人間には手に取るように彼の心の動きが分かる。
ある者はその素直さを愛し、ある者は目が離せぬと溜息を漏らす。大抵の者は不愉快さを露にしつつ席を立つことになるのだが。
 
だが、正則の記憶の限り、三成が自分にそう振舞ったことはない。いつもそうだ。
現に今も此方をねめつける顔には「何をしに来たこの馬鹿が」と書かれており、それは全く間違っていない。苛々と手慰みに扇子を弄びながら彼は言うのだ、俺は忙しい、正則風情が何をしに来た、と。
 
「俺は忙しい。正則風情が何をしに来た」
 
やはり。
三成にとって己は、表情を作る努力をすることも、姿勢を正すことすら価値がない相手と言うことか。
 
秀頼を擁して己の野望を満たそうとした奸臣・三成を、家康は豊臣の大老として打倒すべしと言ってくれた。
だが豪雨に文字通り水を差され国許に戻って、関ヶ原のことを思い返す間もなく、今度はその徳川が滅んだのだ。その知らせを受けた瞬間、我知らず自分はかつての主の名を口走っていた。「秀吉様」消え入りそうな声が己の耳に届いた時、自分が何者なのか分からなくなって、無性に怖くなった。
 
「市松はきっと良い武士になるぞ」
 
秀吉様、俺は大名になぞなりとうはなかったのだ。
恐怖に駆られひた走りに辿り着いたのは、三成の居城だった。伊達の進軍を阻む為篭城をする動きがあると斥候に聞き、無意識にそれが引っ掛かって俺はこんなところにまで。
転げ落ちるように馬を降り、篭城の支度中であろうに奇妙なまでに静かな城を見上げ、正則は首を振った。
 
嘘だ。
何故かは分からぬが、三成に会いたかったのだ。
 
 
 
大手門の真前で手綱を握って立ち尽くす正則に、数人の勇気ある農民兵が近付いて来た。
共も居らず、駆け通しに駆けて来たままの惨めな出で立ちに、最初はあの福島正則だとは誰も信じてくれなかったが、「兎に角三成様にお知らせせねば」という基本を兵の一人が思い出したのは、正則にとって幸いだった。
閑散とした城内を、農民兵達はまるで自分の家のように悠々と歩く。家臣か、そうでなくても誰か取次役が出てくるだろうと高を括っていた正則は、彼らの呼び掛けに再度唖然とせざるを得なかった。
 
「三成様、どこぞの偉い方がお見えで」
「偉い方?そうそう偉い方など居てたまるか。兎も角、ご苦労だった」
 
躊躇いもなく襖を開け姿を見せたのは、紛うことなく三成その人で、冗談とも本気ともつかない軽口の合間に礼を口にする。
兵共を見遣る三成の何の気負いもない笑顔が自分を見て凍りついた、そう思った瞬間、正則は三成に飛び掛ってその胸倉を掴んだ。
 
「三成、貴様、死ぬ気か?!」
 
少しばかり頭の回転が速いからって、いつもいつも人を虚仮にしやがって。そのご自慢の頭は戦の勝敗も予想が付かぬのか。こんな城で、僅かな手勢で篭ったところで何の意味がある。徳川は滅んだぞ。豊臣ももう、終わりだ。
だから俺は大名になんか本当になりたくはなかったのだ。
 
一気に捲し立て、せめて一発殴ってやろうと右腕を振り上げた瞬間、後ろから羽交い絞めにされた。
反射的に身体を捻ると、主を守ろうと先程の兵が数人がかりで自分を押さえ込んでいるのが見えた。誰が呼んだか、いつの間にか名軍師との呼び名も高い島左近も駆けつけて来ている。
 
「正則さん、勘弁してくれませんか。うちの殿、武働きは得意じゃないんで」
 
そうだ、武働きなら俺の方が使い出があるだろう。
 
一体誰と比べてそんなことを叫んだのかも分からなかった。兎に角目の前の男が憎くて憎くて、羨ましくて仕様がない。気付いたら頬がぬるぬるしていて、それで自分は泣いているのだと知った。
 
「…本当は叩き出してやりたいが、一服点ててやろう。馬鹿には勿体無いがな」
 
まだ肩で息をする正則を一瞥すると、三成は顎で座敷の奥を指した。それを左近が面白そうに見ている。

 

 

小次郎の章での大坂の陣の正則が堪らなく好きで、
もしも三成の生前にあのような通い合いがあったらという妄想が、ね。噴き出した。
(09/06/23)