あれから、穏やかな数日が過ぎた。
 
今日も今日とて、せっせと幸村の許に通いつめ、風で舞った洗濯物を幸村の目の前で華麗に空中キャッチしていい気になる遠呂智Zな政宗。
先日のことなど忘れた振りをして、幸村も素直に惜しみない賞賛を送る。
 
あれはなかったことにする、きっと彼はそう思っている。
深く考えると身動きすら侭ならなくなってしまいそうだから、幸村は洗濯物を握り締めたまま笑ってみせる。大丈夫、きっといつも通りの筈。
 
 
 
 
 
そんなこんなで幸村が調理中に包丁で指を切り、例の如く何処からともなく政宗が現れたのは、もう当然のことだった。
何故私はいつもいつもお手を煩わせてしまうのでしょうか。だがこっそりとそう落ち込む幸村以上に悲愴な表情を隠そうともせず、政宗は言う。
 
「此度は間に合わなんだな」
「え?」
「血が滲んでおる。切れてしまっておるではないか。もう少し早く駆けつけるべきであった。すまぬ」
 
そう言って手を取る遠呂智Zを、幸村は首を振りながら静かに見詰める。
いや、そもそも幸村は武将だし。包丁の傷はさておき、全身には結構、刀傷とか鍛錬で負った傷とかあるんだし。
 
だが遠呂智Zはそんなことも忘れたように幸村の小さな傷を切なげに眺め、幸村も鍋が吹き零れようとしていることすら気付けず、手を彼に委ねたまま。
団子の代金を渡してもらった時に触れた筈の掌、なのに、そっと指を撫でるその仕草が今は苦しい、と幸村は思う。
 
「ああ、今回だけではなかったな」
 
ふいに遠呂智Zが自嘲気味に言う。そっと離された指が頼りなくて、幸村は慌てて掌を固く握り締めた。
 
「あの時も、結局お主は椅子ごとひっくり返ったのだったな。儂はきちんと守れてなどおらぬ」
 
遠呂智Zが次に登らせるであろう台詞を予想してしまった幸村は、固く眸を閉じた。
聞きたくなかった。
あなたはなかったことにしてしまいたくとも、私にとっては。例えば、政宗の姿を遠呂智Zに重ねていることだとか、その逆のことだとか、或いはあの時、つい流されそうになってしまったことだとか。
勿論それだけを考えれば至っておかしなことなのだろう。場合によってはおかしいどころではない、自分で自分を許せない類の。
けど今はそんなことはどうでもいい。
謝らないでください、幸村は必死で願う。だっていつだって私達は本気だったじゃないですか。謝ったらそれすら嘘になってしまう。
 
「すまなかった」
 
だが無情にも、彼はそう言って頭を下げるのだ。
あの時、結局転んでしまったことや、今も血が滲んでいる指のことを謝っているのではないだろう。そのくらい幸村にだって分かる。自分には答える術はない。
 
そのまま政宗は一度だけ幸村を見遣ると、戸口に向かう。
そうやって背を見せる度に何度も何度も伸ばした腕は、今度も届かなかった。
「包丁を使うときには左手は猫の手じゃぞ?」
こんな状況なのにさも心配げにそう言い残して行く男が、憎くて恋しくて堪らなかった。
 
彼が去ってから暫く、よろめくように台所を出ようとした幸村は、足元に小さな絆創膏が一個だけ落ちているのを見つける。血など、もう疾うに乾いてしまったというのに。
彼の最後の好意を使うことも、拾い上げることすら出来ず、幸村はこの世界に飛ばされて以来、いや物心ついて以来、初めて声を出して泣いた。
そう、これはきっと彼の最後の好意で、あの謝罪を受け入れてしまった自分には、もう彼と会うことすら出来ないのだ。
 
そう思いながらも無性に政宗に会いたいと願っている自分がおかしくて、他人事のように哀れだとすら思った。
 
 
 
 
 
「政宗、何処だ!何処にいる!」
 
俺は巻き込むな、そう豪語していた筈なのに、結局のところ人がいいのか、男気だけは人一倍なのか、悲しいかな巻き込まれることに慣れてしまっているのか。
 
「もう俺は見てられん!やはりさっさと言っておくべきだったのだ!」
「ちょ、殿!だからといって古志城くんだりまで行くんですかい?あそこ一応敵さんの本城なんですが」
「そう言うなら左近はここで指を咥えて待っていれば良い!」
そんな遣り取りも姦しく、我らが佐和山主従が古志城に馬で乗り付けてきたのは、それから数日経ってからのこと。あれ以来、遠呂智Zなどという馬鹿げた風貌の政宗は、幸村の前に一切姿を見せていない。
 
「あら、三成さん、久しぶりじゃない。元気だった?」
「ああ元気だ。そちらは変わりないか」
「殿ってば!何和やかに話してるんですか!」
 
一応三成とてかつては遠呂智に従う振りをしてあっさり裏切った将の一人なのではあるが、妲己は別段気にした風もなく三成を城内に迎え入れたばかりか「政宗は何処だ!」と詰め寄る三成に道案内までしてくれた。
勝手知ったる(ほら、昔はそこに居た訳だし)古志城内を、三成はどすどす歩く。
 
「政宗、大変だ!」
 
そう言ってぶち破らんばかりに開けた扉の中からは澱んだ空気と共に「…何じゃ三成か…」という大人し過ぎる答えが返ってきた。
幸村も幸村なら政宗も政宗か。この腑抜け共が。三成は舌打をする。
 
「落ち込んでいる場合ではないぞ、政宗。幸村がおかしいのだ!」
「そうか…おかしいか…おかしゅうても幸村のこと、さぞ愛いのじゃろうな…」
「先日まで大福にソースをかけたり、米にみりんをどぼどぼかけたりしていたのだぞ!俺はそれを目の当たりにして吐くところだったのだ!そうかと思ったらここ数日は飯も咽喉を通らん様子、風邪を引いても飯三膳はぺろりと平らげる幸村が、だぞ!」
「……殿、食べ物のことばかりじゃないですか」
 
左近はそう言うが、こうも端的に幸村の変調を表す言葉はなかろう。案の定政宗は「そ、それは本当か!」と食って掛かりかけたが、のろのろと力なく座り込む。
 
「分かっとる、儂の所為じゃ…儂があの時手を出そうとしたものだからきっと困っておるのじゃて」
 
その話は兼続経由で三成も小耳に挟んではいる(兼続のことだから少々正確ではないと承知しているが)。
ぶっちゃけそんなことになりかけた二人よりも、三成は兼続の方に理不尽な怒りを覚えたのだ。正体云々など今更どうでもいい。折角へたれな二人が進展するチャンスだったのだぞ。兼続め、空気が読めぬのもいい加減にしろ。
 
「儂は幸村を裏切ったようなものじゃ。あんな顔までさせて、守りたかったなどおこがましいにも程があるわ」
 
だから謝ろうと思ったのだが、謝ったら謝ったで何だか気が抜けてな。
信用していた者にいきなり抱きすくめられて、幸村はもう儂の顔など見とうないと思っておるのじゃろうて。
 
一応正体は隠しているつもりの政宗だが、その言い草は自ら、遠呂智Zイコール儂!と言ってしまったようなものである。しかし「幾ら何でも隠し事とか変装とか、下手過ぎませんかね?」と呟く左近はさておき、元々正体に気付いていた三成は、そんなこと歯牙にもかけない。
 
「何を言い出すのだ?あれは恋煩いだ。おねね様がそう言ったのだから間違いない」
 
きっぱりはっきり言い切る三成に、今度は政宗が胡乱な眼差しを向けた。
 
「はあ?恋煩い?誰にじゃ?!飯も食えんほど好いた奴が居るのか!畜生、羨ましいではないか!いや、羨ましくなどない!そんなに幸村を思い悩ませる奴は儂が許さんぞ!飯ぐらいきちんと食わせろ!」
 
俺に言っても仕様がないではないか。しかもこの鈍さ、もう救いようがない、だが。三成は思い直す。
こいつらは救いようがない阿呆かもしれぬが、この期に及んで尚、幸村の体調を気遣う政宗は、普通に凄い。自分だってここ数日、眠れてすらいないのだろう。そんなこと政宗の顔を見ればすぐに分かる。
 
「幸村をそんなにまでした相手は俺が思うに、二人だ」
「ま、突き詰めれば一人なんですけどね」
 
貴様は黙っていろ。
きょとんとする政宗に最大のヒントを出した左近に、三成の鉄扇が飛ぶ。「危な!」間一髪でかわした左近は、それでも鉄扇を拾うといそいそと三成の手元に握らせ、三成もまた頷きながらそれを受け取る。仲が良いのか悪いのか、全く分からん主従だ。
その鉄扇を弄びながら、三成が続けた。
 
「先日ふとしたことで幸村の手拭いを借りようとしたのだ。だが断られ、別の手拭いを渡された」
「それが何じゃ?」
「俺に使わせたくないのだと。風が強くて洗濯物が飛んでしまった時、遠呂智Z様とやらが拾ってくれた手拭いなんだと」
 
そう言ったのだ、幸村が。少なくとも俺には自己主張など全くしないあいつが。手拭いを貸せといったら、どんな状況でもさっさと差し出すようなあの男が。
さも嬉しげにそう話したのだ。
 
「どういうことか分かるか、政宗」
「ま、まさか正体がばれておったのか?!手拭いに証拠の指紋が!」
「いや、幸村はまだ知らん。が、そんなことはどうでもいい。問題はそのことを話した幸村と、伊達政宗の話をする時の幸村の顔は、そっくりだということだ」
「儂?」
「あんな変装で騙せるのは幸村と、あと兼続ぐらいのものだ。こっちはどうでもいいがな。口調も同じ、態度も変わらん、ついでに匂いまでそっくり同じなんだそうだ。俺にはそこまで分からんが」
 
俺にこっそりそう打ち明けた幸村は、なかなか見物だったぞ、拝めなく残念だったな。まあ、今はそんなことも忘れたようにすっかり落ち込んでいるが。
 
 
 
黙り込んだ政宗を見下ろしながら、三成は、眉根を寄せこれ見よがしの舌打をしながらも、必死に願う。
 
一目、会いたかったのだろう?あんな馬鹿げた手段を取るほどに。なのに本当は何もかもから守ってやれるなんて思ってなかったのだろう?
幸村が戦に出る際、政宗が姿を見せたことなど一度もなかった。敵である政宗としても、危機を救う遠呂智Zとしても。
リモコンも洗濯物も、包丁の傷からも守って、なのに傷だらけになりながらも戦場を駆ける彼の武士としての誇りすら、守ってやりたかったんだろう?
 
先の戦で先方を預かった幸村は、軽い怪我を負った。大したことないですと笑ってはいたが、三成には、何故政宗が現れなかったかが少しだけ不思議だったのに。
 
今なら本当に政宗が守りたかったものが分かる気がする。そして、それが二人を雁字搦めにしていることも。
政宗が、本当にその気にならない限り、政宗には幸村を傷つけることなど決して出来ぬ。それを思い知らされるのは怖いのだろう、当事者でない俺ですら、政宗にこんなことを告げるのは怖い。
だがきっとそれを言ってやれるのは俺だけなのだ、とも思う。
 
「そんな箍、外してしまえ。守りたいならお前がぼろぼろになるまで守ってやれ。空腹からも雨からも、いっそ矢からも、何もかもから守ってやれ。幸村の誇りはそんなことで傷付けられはせぬ」
 
幸村はそんなに弱くはない、貴様の思い込みも理想すら飲み込んで、でも少し困ったように笑みながらそれでも自分の足できちんと立てるのが幸村だ。
 
三成の言葉に政宗が弾かれたように顔を上げる。
俺が死んだら幸村はどうなるのだ、そんな身勝手な悩みに浸りそうになった俺にそう言ったのは。
 
「お前だったろう、政宗?」
 
俺には何も出来ぬのだ。飯も咽喉を通らぬ癖に、それでも笑う幸村の心情に気付かぬ振りをしてやることしか出来ぬのだ。
だがお前なら――なあ、本当はもう分かっているのだろう?お前だけは、幸村を心の底から笑わせることが出来るのだよ。
 
「殿、なかなか格好良いじゃないですか」
「ふん、当然だ。今更気付いたか、左近」
「ああ、そうじゃな」
 
にい、と笑みを浮かべ政宗が立ち上がる。
 
「なかなか堂に入った演説だったぞ、三成。礼を言う。じゃが、幸村が一番格好良いと思う男はこの儂、独眼竜政宗よ!」
 
室内で刀を振りかざしてそう叫ぶ政宗を見ながら、三成は早速少し後悔した。しまった、少し乗せ過ぎたか。
先程まで溶けそうなほど落ち込んでいた政宗の姿は、もう見る影もない。
 
「よし!馬を引け!今すぐに出掛けるのじゃ!」
「ちょっと待て!何処に行く気だ!」
「知れたこと、幸村に会いに行くのじゃ!会って正体を明かして、儂がどれほどお主のことを想うておるかを教え込んでやるわ!ついでに飯もたらふく食わせるぞ!その幸村を最終的には儂が食うわけじゃがな!」
 
これは手がつけられない。
数日録に食べ物も口にせず、睡眠もとらず、ぐだぐだと幸村のことを悩んでいたその反動が一気に跳ね返ってきたらしく、政宗のテンションはさながら天に昇る竜の如く。
 
「いいから落ち着け!今言ったら貴様が倒れるぞ!」
「ええい、止めるな三成!今行くぞ、待っておれ、幸村!」
「仕様がない、何とかしろ左近」
「は?俺ですかい?」
「そうだ、何の為に連れてきたと思っている。兎に角政宗を押さえ込め。この調子では幸村に会った瞬間襲い掛かるかもしれん。頭を冷やさせろ!」
 
結局佐和山主従二人がかりで押さえ込まれた政宗は(左近だけではどうにもならず、三成は無双まで発動させた)床に押し込められるとすぐに安らかな寝息を立て始めた――本当は気絶していたのかもしれないが一先ず三成の目論みは成功したということだ。
良かった、あのまま行かせたら本当に何処かで行き倒れるところだった。幸村の為にもそれだけは勘弁してくれと思う三成。
左近も息を切らせ、「幸村」聞こえてきた寝言に苦笑しながら、言う。
 
「あーあ、これじゃあ聞き分けのない駄々っ子と一緒だ。そんなに会いたいものですかねえ」
 
いつでも会えるんだったら今すぐにでも会おうとするのが恋ではないのか?
そう返そうとしたが、結構恥ずかしい台詞であることに気付き、黙って鼻を鳴らす。
 
「箍を外せとは言ったが、まさかここまで外すとは…計算外だ」

 

 

三成が意外にいい役ですね。いつもだったら兼続がやる役どころですが、今回は何故か三成。いい子だね!
でも少女漫画テイストにはこういう人って必要だよね!(そろそろそれは諦めろ)

あと、ゆっちゃいけないと思うのですが(んでもって今更だが)幸村はどうやって政宗を個体認識してるんでしょうね?
(09/11/05)