三、
かつて自分が存在していた時代は確かに乱世だった。覇権を争い志の名の元に、人が血で血を洗う乱世。
ではこの目まぐるしく動く状況は何と言えばいい。諸葛亮の進言に劉備は顔を覆った。
乱世以上の事態、自分はそれを示す名を知らぬ。いや、問題はそのことではなかった。何故私はそもそも兵を挙げたのだろう、と最近よく思うようになった。中山靖王劉勝が末孫。誇らしげに名乗っていたそれは、本当に己の誇りであったのだろうか。漢王朝、それに異を唱えた奸雄達、己が守るべき宮廷の内部は臭い立つ程に腐敗していた、脆く脆く、それは自分のような何処の馬の骨とも知れぬ卑しき者が皇叔として入り込めるほどの脆さで。しかし理想と野望を飼い慣らし、蜀の地に依って立ち、皇帝にまで伸し上がった事実は、泡沫のように消え失せてしまった。
夢のようだ。
そこまで考えて劉備は己の頭が想像以上にぼんやりしていることを思い知る。
逆なのだ。夢のようなのは遠呂智作りしこの世界。この世界の空気は、希薄と呼ぶに相応しい何かを纏っている。胡蝶の夢。いや、夢と現実を取り違えたと言うには余りに現実感のないこの地平。
ならば私は何故、夢の中でまで尤もらしい理想で野心を覆い隠し、兵を率いているのだろう。思考は堂々巡りのまま、やがて薄ぼんやりした何かに沈んでいく。
「さて、私達は何者なのでしょうか」
突如発せられた名軍師の問いに途方に暮れた劉備の傍で、関羽が顔を顰め、張飛が幾分かおどけた調子で肩をすくめた。
ここにはかつての蜀の主であった劉備と五虎将、そして諸葛亮しかいない。
「一体何を言い出すのだ!」
軍議とは思えぬ諸葛亮の問いに最も反応したのは馬超で、何故か苛立ちを隠せぬかのように拳を机に叩きつける。そんな馬超を諌めるように黄忠がぼそり呟いた。
「この老いぼれには難しいことを尋ねるのう」
普段は年寄り扱いをされると人一倍怒る癖に、と茶化す隙がないほどその言葉は台詞めいて白々しく響いた。
諸葛亮の言葉に趙雲だけが一瞬何かに気付いたかのように身体を硬直させ、その直後姿勢を正して槍を握り直す。
既にかつての蜀の地はないとは言え、彼にとっては劉備の存在こそが仕える国であり、がらがらと崩れそうな足下を守るには将軍としての己の職務を全うするしかないと思い極めているようでもあった。
「いえ、かつての英傑を名乗るあの青年を、我々は闇雲に信頼してはいけない。私はそう申し上げたいのです」
羽扇をはためかせながら諸葛亮は静かにそう宣言する。
「だが――しかし彼は、あの周公に付き従った姜子牙だと言うではないか」
かつて存在した殷朝、その最後の皇帝である紂王を悪政に導いたのはたった一人の后だった。その悪女・妲己を討ち、混乱した世に再び天道に即した国を打ち立てた立役者が、太公望・姜子牙である。
それは子供でも諳んじているこの国の歴史だ。
その彼が妲己を追って神界から再び現世に現れたと言う。遠呂智に従い尚も悪行を重ねる妲己を捕らえる為に現れたという彼の言は、筋が通っているようにも思われた。
「彼だけではありません。お忘れですか、伏犠と女カまでもが姿を現したと彼は言ったではないですか」
神話の人物である。
地が水で埋まるほどの大洪水を生き残り、人の祖を生み出した彼らは、正にその名の通り天帝であり神であった。
「既に遠呂智は滅びました。妲己は破れ逃走を続ける遠呂智の残党に他なりません」
「なのに何故今頃になってその妲己を追う為に彼らが現れたか、ということか。軍師殿?」
口を挟んだ趙雲に頷き返し、諸葛亮は再び劉備に視線を移す。
馬超もそれに倣うかのように、劉備に目を向けた。時に口元を隠し、またその手の内でやわやわと揺れる羽扇の動きが、今日に限ってやけに気に障る、そのことを意識の外に追い遣るように。
あの者は自らを神と名乗りました、薄笑いを崩さず諸葛亮が続ける。
「秩序を作るのが神であると致しましょう。では秩序とは何でしょうか」
「それこそが正義ではないか!遠呂智とやらが作り上げたこんな馬鹿げた世に正しい条理を――」
そこまで叫んで馬超が目を見開く。畳み掛けるように諸葛亮は問うた。
「馬超殿。あなたがこの世界に飛ばされた時、最後に見たものは何でしたか?」
乱戦の末意識を手放した劉備は、多分知らない。
訳が分からぬまま異形の軍隊に攻め込まれ、気付いたら本陣は妖魔との混戦になっていた。
負け戦は数多く経験したが、敵前線を潰し、少しずつ自陣を押し上げる戦しか知らぬ自分達には、本陣が潰走したことはあれど、壊滅したことなどなかった。どうしていいか分からなかった、劉備の最も近くで槍を振るっていた趙雲は、いつだったか馬超にそう語ったのだ。あれは正に悪夢だった、と。
が、それ以上の悪夢。
地に倒れた劉備の目はきっと閉じられていたのだろう、と馬超は思う。
彼は何故か見ていない。あのおぞましい現象。
「俺がいた…遠くに、まるで浮かんでいるかのように俺の姿が見えた」
馬超にはそう答えるだけで精一杯だった。自ずと身体が震える。
父と弟の死、潼関での戦、漢中での攻防、曹操に一矢報いることさえ出来なかった馬孟起の、己自身の惨めな生涯を語るには、諸葛亮の問いは軽過ぎた。
あの時、劉備の身に危険が迫っていると聞き、遠呂智勢を蹴散らし馬を駆った。劉備には趙雲が付いている筈だ。諸葛亮だってその才知をもって彼を助けているに違いない。だが言い知れぬ不安に焦燥を拭い切れぬまま馬を走らせた彼が最後に見たのは、他人事のように虚空に綴られる己の生涯と、平時と何ら変わらぬ自分自身の姿だった。
槍を高々と掲げ、来るべき魏との戦に備え兵の訓練をし、そんな自分がその後辿るであろう人生――それは戦の混乱が見せた幻というには現実感がありすぎた。
儂にも、見えた。黄忠が普段の覇気など到底考えられぬ掠れた声で、重大な秘密を打ち明けるように呟く。
「弓を番えた儂が戦っておった。勿論遠呂智の手下なんかとではないわ。相手は呉の若造、だったかのう」
「私も、恐れながら殿がお倒れになった時に」
趙雲の台詞に含まれた焦り。自分の言葉を途中で遮られる形になった黄忠は、しかし抗議の声など一言も上げなかった。
誰だって話したくないことに違いない。馬超は勿論知り得ない黄漢升という男の死に様。いや、誰だって知り得る筈などないのだ。自分自身の末路を唯一自分だけが知っている、という異常さ。
薄れゆく意識の中であれに手を伸ばそうとした、と続けた趙雲の顔は蒼白だった。
劉備の安否も、自分が蜀将だということも忘れ伸ばした腕は幻に届くことなく空を彷徨ったが、確かにその先には自分と寸分違わぬ趙子龍がいたのだ。かつての地平で自分は実に普通に存在していた。
眼前で行われている遠呂智軍との死闘など目に映っていないかのように、いや、彼は(或いは自分、と呼べばいいのだろうか)本当に見えてはいなかったのだ。
肝心なことは隠したままでそう語る趙雲の表情を、劉備は都合良く勘違いしたらしい。
「趙雲…」
感極まった劉備の声は、以前と変わらぬ人好きのするものだったが、それはこんなに空々しかっただろうか、と馬超は思う。
あの時地に倒れ伏した劉備を顧みることなく、思わず手を伸ばしてしまった趙雲。劉備の身を守ることが絶対にして唯一の職務だと趙雲が思い詰めていたとしても、彼のその行動が己の任務への裏切りだとは馬超にはどうして思えない。恐らくは趙雲自身も、そう思っているであろう。
一身これ胆と称された趙雲さえも震え上がらせる事態。
趙雲も恐らくは、見たのだ。馬超と同じものを。
戦場で槍を握って死ねたら本望。そんな生易しい言葉など如何に意味がないかを知ったのだ、あれを見てしまった彼は。
関羽が固く目を閉じた。きっと耳を塞ぐ変わりだったのだろうと思う。
酒が呑みてえと呟いた張飛だったが、彼の目の前に美酒がなみなみ注がれた杯があっても、今この瞬間の彼は目も呉れないだろうと思った。
修羅場をくぐり抜けてきた武人達。だが彼らは確かに戸惑い、静かに取り乱していた。
「それが本当であるならば、ここにいる私は、そしてそなた達は一体何なのだ?」
そんな静かな混乱の中に放たれた、人知を超えた現象を語ろうとする劉備の声は、まるで異世界――今そんな言葉を使うなんて洒落にもならない――からのものであるかのように空恐ろしく響いた。
あの恐怖は見た者にしか分からぬ。
唇を噛み締める趙雲の視界の端に、俯く黄忠の姿が見えた。
何を為すべきか、それについては嫌と言うほど省みてはいたのだ、趙雲は思う、だが。
誰も考えてはいなかったのだ、自分が何者か、だなんて。
「これらのことが何を示しているのか、私にも全く分かりません。ただ私達が遠呂智によって作られた秩序を乱す存在ではないと、その確証は何処にもないのですよ」
「異分子を排斥する為に神が現れたとすれば、その対象は妲己だけではないということだな」
「ええ殿、その通りです」
「信用するなというのは分かった。だがそれなら俺達が俺達である保証だってどこにもないではないか。信用ならぬのはあの太公望を名乗る者だけか?」
振り絞るように発せられた馬超の声に対し、諸葛亮の声音はあくまで冷静だった。
「私にはあなたが馬超殿そのものに見えますが。あなたの目に私はどう映りますか?」
「蜀の天才軍師。俺達を一番上手く使える人間だ。向こうにいた時の俺がそう思っていたように」
「光栄です」
その評価は確かに不動のものだった。彼がいなければ遠呂智を倒すことはおろか、劉備も助けられなかっただろう。
右も左も分からぬ世界で彷徨っていた自分が、こうして懐かしささえ感じる面々と合流出来たのも、諸葛亮の働きに因るところが大きい、だが――もしかしたら。
「兎に角、分からないことが多過ぎます。神界の出だと名乗る者達、そもそもこの遠呂智作りし世界はどうなっているのか」
此方の雰囲気など全く顧みることなく、窓の外からは長閑過ぎる小鳥のさえずりが聞こえた。それに耳を傾け一瞬黙った諸葛亮は、再び羽扇を口元にあてた。
「例えば、城下の花はいつ散るのでしょうね」
誰も窓の外を見る者などいなかった。
この世界に飛ばされ、散り散りになり、遠呂智軍と死闘を重ね、劉備を取り戻した時にも――その間ずっと咲き誇っている花を美しいと見上げる者など、最早誰もいなかった。
何かが、少しずつおかしい。
淡い紅色を湛えたままの桃園、少し北に馬を進めれば凍りついた根雪は溶ける気配すら見せない。辛うじて昇る太陽のような光に、宵闇を照らしている月のようなもの、毒々しい紫色のまま、決して変わらぬ空の色とその中にいる自分、のようなもの。
「ようなもの」ばかりの世界。
おかしい、おかしいと言えば。
――もしかしたら諸葛亮は、劉備同様、己の死姿どころか光の中に消える自分の姿さえ見ていないのではないかと馬超は思った。
無双では、夷陵で「ほざけ!」と叫んでみたり、街亭で「錦馬超参上おぅぅう!」と登場したり
あまつさえ、EDで「馬孟起、参る!」とぴー様と司馬ちゅーに斬りかかってる馬超殿ですが、
ここでは、蜀に降ったはいいものの、あまり活躍の場がなく222年辺りに病死、ということにしておいてください。
…本当は蜀を出奔して異民族を率いて何処か行った、という眉唾ものの説も好きなんですけどwww
なんつーか、戦国サイトで三国書いてすいません。
でも馬超は好きなので、これから大活躍です。多分。
(10/11/09)