四、

 

 

人蕩し、と呼ばれた能力は伊達ではない。他人を愚鈍と嘲ることはなかったが、秀吉にとって他人はやはり愚鈍に見えた。
よっく観察しておれば人が欲するものなど手に取るように分かるんさ、と豪語した時――それは勿論秀吉にとって豪語でも何でもなく、真実だったが――虎之助は首を傾げ、佐吉はそれでこそ秀吉様だと目を輝かせながら頷き、市松は言葉の意味すら分かっていないようだった。
 
信長の機嫌すら手に取るように分かる秀吉にとって、出世も戦の行きつく先も、全ては想像の範疇だった。
頭の中で何度も何度も模擬戦を繰り返し、最悪負けるのであればどのようにして兵を引くかを考え、最高の勝利の為のふんばりどころを計算する。命と武功を天秤にかけ、本当に危険な賭けに出るべき事態かどうかを入念に計り、そんな判断には絶対の自信があった。
事実、自分は常に最高の勝利を収めてきた。
有無を言わせぬ戦勝ではなく、その後の政略につながるような、その場に応じた最高の勝利。
戦術や人付き合いのみに特化した智謀が何になろう。何もかもを上手く取り計らうことこそが最高の謀であり、至上の能力である。
 
それが崩れたのは、遠呂智の世界で信長を見てからだ。秀吉は回らなくなった頭で必死に考える。これまで自然にやってきたことを意識して行うのは難しい。
わしの頭はいつから計算することを止めてしまったんじゃ。そう、それはまるで水の中で、いや、夢の中でもがいているかのように。
 
 
 
死んだ筈の信長様が生きていた。この世界で。
 
その報を聞いた時、秀吉は取るものもとりあえず彼の人の許へ向かった。それまで一緒にいた三成が何事か言って止めたが、部下にすら気を遣うことが当然であった自分が、何故あそこで三成すらをも置き去りにして信長の許へ走ったのか、その時には分からなかった。単純な歓喜に打ち震えていたのだろうとさえ思った。
主の為に犬馬の労も惜しまない暮らしが再び始まるのだ、そう思い高揚する自分を何処かで可愛く思う余裕さえあった。
 
それが誤りであったと気付いた瞬間、秀吉の頭は動くことを止めたのだ。
 
かつての主は秀吉の記憶と寸分も違わず、自信と才に溢れていた。信長様、と愛嬌に満ちた声で呼びかければ鷹揚に振り返り、無言の圧力をかける。
以前であれば何処か居心地の良さすら感じられたその圧力から目を逸らし始めている自分に、秀吉は愕然とした。簒奪者、という不名誉極まりない単語が背後から何者かによって投げつけられたように思った。
 
違う、信長様を弑し奉ったのは、光秀じゃ。
 
そんな反論に最早何の意味もない程、罪の意識は重かった。何より、己が築いてきた事実が重かった。
 
本能寺の第一報を受けた時、秀吉の賢過ぎる頭はこれまでになく回転した、という事実。
あの瞬間、自分の裡なる野心は目を覚ましてしまったのだ、という事実。
したり顔で今後の展望を語る官兵衛を叱りつけながら流した涙は本物だったかもしれなかったが、あの時自分は何処かで官兵衛を褒めてさえいた。よくぞ言ってくれた。織田の跡を継ぐ者となれ、という言葉を発した彼一人を悪者にし、あくまでも主の弔い合戦の体を崩さず日ノ本を手中に収め、そしてそれは成功してしまった、という事実。
関白となり太閤となり、老耄した己が一体何をしたか。幼くして死んだ第一子。秀頼の為に家康の手を取って、何度惨めな懇願を続けたことだろう。
現実にはまだ起こっていない筈の現象を記憶として持っていること。
今更ながらに賢しらな己の頭を殴りつけようと、事実は何も変わらず、その後の展望すら秀吉には手に取るように分かる。
愛しい我が子は死んだか、不遇をかこったか、そこまでは分からぬが、豊家の治世は夢のように消え失せ、恐らくは家康が後を継いだのであろう。
 
無念だ、と心の底から思った。侭ならぬ己の人生に初めて歯軋りした。
信長に対して自分がやってきたことさえ忘れ、秀吉は生まれて初めて他人を憎んだと言っても良い。
が、信長はそんな秀吉の心中など何も知らぬかのように振る舞うのだ。
 
このお人は、もしかしたら何もかもを存じ上げぬのかもしれない。
 
一瞬縋りたくなるその可能性は、しかし救いにはならなかった。簒奪者、あの声がまた何処からか聞こえる。信長を殺したのは光秀。しかし信孝を殺したのは紛れもない自分だ。
政敵を殺し、彼の版図を丸々引き継いだのは。報いを待てや羽柴筑前。
 
「こんな報いなんて…こりゃ普通になしじゃろ…」
 
報いどころではなく、本当はこう言いたかった。
信長様が生きておられるなんて、普通になしじゃろ。
 
それを自覚した時、秀吉は己が真っ二つに割れたかのような錯覚に陥ったのだ。それでも未だ信長を信奉する自分と、彼がいなくなってくれれば良いと願う己。悪い夢だ。そうだこれは夢に違いない。その証拠に自分の自慢の頭脳はぴたりと動きを止めたではないか。
馬鹿馬鹿しいとは思ったが頬を思い切り抓ってみた。
もしかしたら何処かで「痛え!」と大仰に驚いて嗤いたかったのかもしれないし、いっそ何の感覚もないと胸を撫で下ろしたかったのかもしれない。痛い、とは思わなかったが、頬を抓ったという感覚だけはあった。秀吉は一層混乱する。
 
「夢じゃろ。こりゃ夢じゃ、早く醒めねばならぬ悪夢じゃ」
「そう、その通りだ」
 
一人だけだった自室に女の声が響く。そのことに警戒も、いっそ驚きさえ抱かなかったことをむしろ驚き掛けたが、これは夢なのだ。
だとすれば少しも不自然な展開ではなかった。
 
「本物のお前は小田原で戦っている。日ノ本統一の為の最後の戦だ」
「そんな時にこんな夢に囚われるなど、運がなかったのう」
 
続けて聞こえたのは男の声だった。硬質に過ぎる女の口調と、奇妙なまでに明るい男の声は何処か胡散臭かった。が、もう秀吉はそれに縋らざるを得ない。
本物のお前、そう言われた時、ふいに思い出した。遠呂智に囚われる前、最後に見たもう一人の自分。武威を見せつけ諸大名の動向に頬を緩め、忍城に向かう三成を送り出した秀吉。
そうだ、あれが本物だ、本物のわしなんじゃ。
 
「いつか醒めるのが夢じゃ。それがどんな悪夢であろうとも」
「私にはお前を夢から引き離す用意がある」
「小田原に、戻れ。そうして天下を統一するのじゃ」
「醒めれば悪夢は跡形もなく消える」
 
本当に消えるんか。
恐る恐る口にしたその言葉は、まるで死を前に耄碌した老人が年若い我が子のことを案じているような不快さを帯びていた。秀吉は途端に戦慄する。元の世界に戻った後で待ち受けているもの。栄華を誇った己の死。
死にたくないと願った。それはあたかも、神に祈るように。
 
「夢を見た者が消えれば夢は消える。道理であろう?」
 
今正に小田原で陣を張っている秀吉。そこに戻りたいのであって消えたくはない。そもそも夢を見た者が消えるとはどういう意味なのか。
それが己の死と同義であるならば――死にたくない。
 
「死んだ主が生きておったんじゃ。そりゃ混乱もするじゃろうて」
「お前の歩んできた道が唐突に歪み、戻され進められたのだ。矛盾に苦しむは人の子の性であろう?」
 
仮令矛盾に溢れた世界でも。己に靡きかけた天下が懐に転がりこむ最後の一手、その途端かつての主が急に甦ろうとも。信奉する信長に己の所業を悟られようとも、死にたくない。
確かなものなど何一つない世界で、それはたった一個の確信だった。死にたくない。
 
「まだ此処に未練があるのであれば、無理強いはせぬよ」
 
それは完全に秀吉を見下した一言だった。信長の死後、卑しい生まれながらも伸し上がった自分を、面と向かって見下す者など誰一人としていなかった。そうだ、滅びた遠呂智でさえ。
彼は自分の武に絶対の自信を持っていることを臭わせはしたが、それでも向かってくる者を見下したことなどなかった。
これは、誰だ。これは、本当に夢なのか。
 
死を固辞したが故か、それとも夢であるという感覚を否定したかったのか、秀吉自身にも分からなかったが、慄きながら首を振った途端、彼らの声と気配は消え失せた。後に残るは、たった一人の静寂と、それでも身の裡から繰り返される簒奪者という罵声。
悪い夢のように残酷な現実の続きじゃ、そう思った。だがそれでも消えたくなどない。
 
それと同時に、秀吉の中で一つの選択肢が鎌首をもたげつつあるのも確かなことだった。
いっそ、消えて、いや、死んでしまえばという可能性。死んだら終わりじゃ、だが誰か終わらせてくれ、という無力な人の願い。
 
ぎこちなく背後を振り返りながら秀吉は誰もいない虚空を茫然と見詰めながら考える。
罪の意識に苛まされ愚鈍になっていく己の今後と――秀吉を見下すように消えろと囁いた彼らの声は、何故あんなにも優しかったのか、ということについて。懸命に。思考することに慣れぬ人間のように、愚直に。

 

 

本能寺の変を起こした光秀より、秀吉の方が色々根が深そうなのは、なんでだろう?とか思いつつ。
(10/11/12)