六、

 

 

はじめに異変に気付いたのは政宗だった。
 
遠呂智の世界に巻き込まれた時屋外に居た者は、こう語っていることを政宗は知っている。空が割れて城が、屋敷が吸い込まれていった。気付けば自分も同じように吸い込まれ、そうして見知らぬ荒野の只中に居た、と。
あたかも、紙に描かれた絵を切り取って別の紙に貼りつけたように。
 
その証拠に遠呂智の世界には領主の在不在に拘わらず、元の世界のままの城がそのまま聳えていたし、有難いことに蓄えの兵糧や武具もあった。城下を一歩出ればそこは荒れ果てた荒野があるばかりで、その中にやはり切り取られたかのような集落が点在していた。
城を、町を結ぶ街道など何処にもない唯の荒野に存在するそれは、無作為、という言葉がぴったりくる切り取られ方だった。
 
 
 
慶次が言っていたではないか。遠呂智は強者を呼んだのだと。
 
 
 
もしも真に強き者だけを求めたのであれば、兵糧や兵士はまだ頷けるとしても、完全に非戦闘員である女子供までを連れてくることはなかった筈である。これは一体どういう訳かと政宗は考えるが、無論答えはない。
ただ、畑には実りがあり、生産があるということが今となっては有難かった。城下を流れる川には滔々と水が湛えられており、青々とした田が見える。
それだけを視界に収めるのであれば、その数里先には茫漠とした荒野が広がっているとは思えぬ程の光景だった。
 
意図は全く分からぬが、遠呂智は無作為に城や町や村を切り取り、この世界に配置したのであろう。ならば、己の支配圏の政務を司ることも、今の政宗にとっては仕事の一つである筈だった。
昨日も忙しく働き、無論その前も、おそらくは一月前も同じように忙しく働いていた自分をふと振り返り、政宗は急に怖気立った。
確かに政務はした。
しかし政務をした、という記憶があるだけで、何をしたのか具体的に答えろと言われれば、記憶はおぼつかぬ。
まるで夢の中の記憶のようだった。
 
感覚が薄れている。かと思えば、痛みも空腹も覚えるのだ。勿論、夜になれば眠気も訪れるし疲労感もある。しかしそれは、どこかぼんやりした捕え所のない感覚だった。
「そろそろ腹が減る時間だ」という常識に則って、ない筈の空腹感を覚えているだけではないか、といったような。
 
「お主、昨日何を食ったか覚えておるか?」
 
政宗の傍に控えていた幸村に、冗談めかしてそう尋ねてみる。幸村は一瞬変な顔をしたが、覚えておりますよ?と口を開き掛け、絶句した。
 
「一昨日は?」
「一昨日は、鰯を頂きました。新鮮なものが手に入ったと、言われて、それで、政宗殿もご一緒に」
 
幸村の声はどんどんか細くなる。鮮明な一昨日の夕餉の記憶。
しかし昨日は何を食べたのかすら、きちんと覚えていない。
 
「今は、夕刻じゃよな?」
 
紫の空に浮かぶ頼りなげな陽を見詰めながら政宗が言う。幸村にはたどたどしく頷くことしか出来ない。自分の身体の中の感覚は、確かに今が夕方だと言っている。その前には昼があり、朝があったと。至極当然なことだ。
なのに何故自分はそんな判断に自信が持てないのだろう。
 
「昨日は共に床に入ったよな?」
 
勿論転合を言っているつもりはないのだが、多少躊躇した幸村が頬を上気させながら再び頷いた。政宗と幸村、少なくとも二人の記憶は、共有出来ているようだ。その前は?その前は思い出せない。幸村が「その日も確か共に…」などと言うから間違いはないのだろう。ではその前日は。
 
「…覚えておりませぬ」
 
 
 
政宗はその日のことを良く覚えていた。この世界に飛ばされて以来、夢のようだ、と政宗がはじめて意識した日である。
 
一体自分は毎日毎日何の政務をとっていたのか。それを思い返しながら、政宗は遠呂智世界に飛ばされて以来の日数を必死で数えていた。江戸城での戦があり、雑賀で再び家康に会った。街亭でやっと幸村に再会出来た。
それは覚えているのに、日数を数えた政宗の指は、一つも折り曲げられぬままだった。
 
「そうじゃ、兵糧は」
 
蓄えられた兵糧は時の経過を知る良い手掛かりになる。それを正確に把握していることが城主の役目の一つの筈だった。政宗とてそのことは肝に銘じているし、疎かにしたことなどない。
が、この世界に来てから自分はそんな心配などしたことがなかった。唯の一度も、だ。
血相を変えて蔵の戸を開けた政宗を待っていたのは、うず高く積まれた食糧だった。政宗の記憶によれば、遠呂智の世界に飛ばされる前と寸分変わらぬ蔵の中。頭の中から警笛が聞こえる。あり得ない。
とは言え、この世界に来てからの自分の記憶が如何に頼りにならぬものか、そう気付いた政宗は自室をひっくり返して記録を探した。
しかし全ては無駄だった。
政務の記録は確かにある。何を書いてあるか、勿論読むこととて可能だ。
だが、内容だけが綺麗さっぱり分からぬのだ。
 
頭の中に霞がかかったように、紙に書かれた文字を、数を読むことが出来ない。
 
その日の夕刻、政宗は人知れず蔵の中から塩を全て運び出させた。
こんなことはあり得ない。が、あり得ないことがこの世界では次々に起こっているではないか。
幸村には所用が出来た、とだけ告げて、一人で蔵の中で朝を待つ。勿論そんなところで寝る気はない。あり得ない世界のからくりをこの目で確かめる為だ。一昼夜をここでじっと過ごす。
然して眠気は感じなかったし、一晩や二晩の徹夜であればどうということはない、そう確信していたのだが。
 
まるで何かに操られるように政宗はことりと眠りに落ちた。目覚めた時には全てが遅かった。陽は既に昇っており、運び出した筈の塩は、蔵の中に、何事もなかったかのように戻っていた。
寸分違わず。
同じところに。
あり得ぬ、と呟こうとした政宗は、自分の声が空気を震わすことさえ恐れ、蔵を飛び出した。それ以来、あそこには行っていない。
 
 
 
「もう儂は、恐ろしくて見れぬ」
 
食べている飯は、毎日違う。幸村と交わす会話も毎日違う。
が、まるで変わらぬ日常。
随分長い間この地にいるのは確かなことなのに、感覚が主人たる政宗にすら嘘を吐き続けているかのように。
 
「政宗殿、私もずっと思っていたことがあるのですが」
 
幸村が顔を寄せて囁くと、政宗にとっては慣れた彼の香りがする。この感覚だけは現実のような気がするのに。
そこまで考えて政宗は、怖々と告げられた幸村の言葉に本気で戦慄した。一人であれば狂乱し、叫び出していたかもしれぬ。
 
「川の水量は変わらない。堀も水を湛えております、しかし…雨が降った覚えが私にはないのですが」
 
政務の内容。減る筈の兵糧。平時の天候。当たり前にそこにあったもの。
 
幸村は政宗を見詰めたまま、ぴくりとも動かない。政宗も金縛りに遭ったかのように硬直したままだ。身動ぎ一つで何かに見つかってしまうとでも言いたげな恐怖感。
当たり前過ぎて漠然と分かっていたかのような全てが、曖昧で、まるで。
 
「同じ時を繰り返している…訳ではないよな?」
 
三日前、些細なことだったが幸村と少しだけ喧嘩をした。いつもの政宗の軽口に幸村が怒って多少拗ねただけであったが、昨日も一昨日もそんなことはしていない。そんな瑣末な記憶が有難かった。
 
「夢…?」
「夢にしては、長過ぎます」
「儂は長過ぎるその日数を数えることも出来なんだぞ」
 
幸村が頷く。恐らくは幸村も同じことを試みたに違いない。私も出来ませんでした、と憚るように口にする。
そのからくりを解いた先にあるのが、救いか滅びか、全く分からぬことを堂々と口に出せる程自分達は豪胆でもなければ考えなしでもない。
 
「でも街亭で政宗殿とお会いできるまで、私はずっと安否を気遣っておりました」
「すまぬが、もっと分かり易く言ってくれんか」
「ずっとお会いしたいと思っておりました」
 
観念したようにそう言って幸村が顔を上げる。私は政宗殿が想像する以上にあなたのことが好きみたいです。
 
「前のあの世界でも同じようなことを考えておりましたし、夢に見ることもありました。あなたに会いたいと願っている夢です。もどかしさも切なさも現実と同じように感じることが出来る夢でも、痛みだけは違った」
 
遠慮がちに、だがしっかりと政宗の袂を握る幸村の指は、真っ白だった。
 
「あんなに痛くて辛いのが、夢の筈ありません」
 
ああ、そうだ。あの時自分もそう思った筈だった。
付いて行くと縋るように腕をとった幸村を見て、こ奴の為であれば世界の一つや二つ救ってみせようと思ったのは、夢の中でも伊達家当主でもない、現実の伊達政宗としての願いに他ならなかったではないか。疼くような快感にも似た痛みだけは、本当だ。何より醒めぬ夢は夢とは呼ばぬ。遠呂智作りし世がそれでも存在し続けるのだとしたら、既にそこに生きている自分にとって、此処は、紛れもない現実だ。
 
「それを揺るぎないものにすると、あの時誓った筈なのにな。儂もまだまだじゃ」
 
あの時?と幸村が問い返したが政宗は素知らぬ振りをした。恐怖を振り払うように幸村を抱き寄せたら、幸村の吐いた息が首筋に当たって気持ち良かった。幸村も、自分もまだ生きているのだと思った。

 

 

全体的に説明っぽい話で申し訳ないですけど、
再臨をはじめてやった時、戦国OPでどう考えても戦えない民(爺さんとかね)が出てきたことにショックを受けたのです。
あれーこの人達絶対戦えなさそうなのに、何で遠呂智様呼んじゃったの?的な。

あと、援軍と言う形でそれぞれの勢力間で人を遣り取りしてるけど、兵站のことはスル―されているようだったので、そんな話を。
遠呂智亡き後の天下を、誰より先に狙う形になった伊達は、恐らく一番はじめにそこに気付いたのかもしれないし、
そうでないかもしれないよね。(そんな、適当な)
(10/11/27)