七、
「秀吉は結局、残ったな」
それについては伏犠は何も答えなかった。ほれ、と差し出された茶器を受け取り、女カは嘆息する。
秀吉のことも気にかかっていたが、先日会った娘の身を切られるような嗚咽も、女カの耳にまだ鮮明に残っていた。
何か恐ろしい夢を見たのだろう。この悪夢のような世界で悪夢に魘されるとは、憐れなことだ。
寝汗に塗れて飛び起きた娘は、勝家、と言いかけた後で、長政様?と怖々口にした途端、身を捩って泣き出した。まるで幼子のように。彼女が呼んだであろう人物は、どちらも傍にはいなかった。
娘の生い立ちを、女カは知っていた。
実家と婚家との確執。前夫の遂げた非業とも言える死。少しずつその傷が癒えた頃、彼女はこの世界に飛ばされた。前夫とは似ても似つかぬ現夫と共に。
浅井長政が生きている。
そのことを知った勝家は、迷うことなく市を長政の許に送り出した。
何があるか分からぬこの世界で、護衛を付けたとはいえ、最後まで自分の手で送り届けられないことを憂いてはいたが、自分が長政の前に身を晒す訳にはいかなかった。二人の間で裂かれる市を見るのは、勝家にとって本意ではない。全てはあのお方の幸せの為。
それは勝家にとって息をするよりも当然のことで、今や全てが曖昧になってしまった世界の中で、唯一確固たる彼の指針だった。
「今は貴方の妻であるつもりです」
市はそう言って強固に抵抗したが、勝家は聞く耳持たぬ姿勢を頑として変えなかった。
「私は最後まで勝家、貴方と共に」
その台詞に勝家は、彼女の深い覚悟に戦慄を覚えつつも、心中深く安堵した。炎に包まれた北ノ庄で、確かに市はその言葉を口にしたのだから。
それを躊躇なく口に上らせた彼女は、きっと自分が目の当たりにしたあの不可解な現象――もう一人の己が姿も、死に様も見ていないと確信したのだ。
秀吉に敗北を喫した、そのことは勝家の自尊心を甚く傷つけたが、そんなことよりも信長の妹御である市を死出の道連れにした事実の方が許せなかった。落城寸前まで追い詰められた己は彼女の決意をどんなにか心強く、また愛おしく聞いたことであろう。
しかし、眼前に展開する己の死に様はあくまでも、第三者によって無理矢理に見せられたものであり、戦や実際の死を前にした高揚感とは程遠いところにいる今の勝家にとっては、自分の最期の決断は到底信じられるものではなかった。
守るべきものを一つずつ守る。
それが自分の信条であるからして、信長の行方が分からぬ現段階において彼が守るべきものは、一先ず、不安げな表情を浮かべ自分を慕ってくる部下達と、市だけだった。あの男であれば、お市様を決して危険には晒すまい。そう考えての判断だったのだ。
もう、自分では守り切れぬかもしれない。最期に彼女を道連れにしてしまうような己には。
それでも、城門の下、荒野を前に駒に跨る彼女を見た勝家の心は揺れる。
無事に辿り着きなさるだろうか。もしも長政が市を拒みでもしたら。市のいない明日からの毎日は随分味気ないものになるかもしれない。
「お市様」
呼びかければ、馬上の市が、すぐさま此方を振り返る。
彼女は、すっかり体得してしまったあの諦めに満ちた笑みを浮かべながらも、一晩中涙を流し続けていたのであろう。瞼は腫れ、幾度も擦られたであろう頬は赤かった。
それが何よりも美しいと思う。
絶世の美女とあの猿は軽々しく口にするが、そういう類の美しさではない。恥入って顔を隠すでもなく、腫れた瞼の向こうに見える凛とした眼光、背筋をしゃんと伸ばしてきちんと自分を見下ろす姿が何より。
「道中の無事、心よりお祈り致す」
「ええ、大義でした。勝家」
一度くらいは許されるのではないかと思った。
我が敬愛するこの世で最も美しい主。
もしかしたら市は、勝家と共に立ち、支える妻になりたかったのかもしれないが、それをおいそれと受け入れることは出来なかった。市を、自分より下座に置いた記憶はない。至らぬ所もあったかもしれないが、彼女には思い付く限りの礼を尽くし続けた。
それが他人から見たらどんなに奇妙な夫婦像であったとしても、敬愛の裏には確かに情に塗れた生臭い愛情があった、と勝家は信じている。
「有事の際はこの勝家を頼ってくだされませい」
そう言いながら手綱を取る市の手を握る。恭しくその手に触れたことは何度もあったが、こうして何でもないものを包み込むように触れたことなどなかった。自然と頬が緩む。
「鬼柴田が二丁斧は、お市様とその夫君に捧げさせて頂く故、な」
あの猿のような軽薄な物言いだとは思ったが、悪くなかった。
包まれたままの細い指先は、確かに勝家の武骨過ぎる掌を握り返してくれたのだし、
「まあ、勝家ってば」
腫れた瞼で市は朗らかに声を立てて笑ったので。
市を見送り城内に引き返そうとする勝家の耳に、護衛につけた筈の部下の声が届く。
「お、お市様!お待ちくだされ!」
急を告げる切羽詰まったものではなかったが、幾分か慌てたようなその声に振り返り、勝家は仰天した。
「お市様?!」
「勝家!」
そのしとやかな振る舞いからは想像も出来ぬ巧みさで馬を操り、鐙を蹴って勢いよく飛び降りた彼女が、こけつまろびつ、此方に走ってくる。
僅かに息を乱し、頬に貼りついた髪を無造作に振り払うと、彼女は勝家の手を取って言った。
「私も、祈っています。どんな世界でも、何処にいても、誰の隣にいても」
これは決別の言葉なのだろうと思った。
心底惚れた女とその幸せの為に斧を振るう。他人にはそれがどんなに下世話に見えようが破廉恥なことに感じられようが。
「貴方の、幸せを。私も、祈っていますから。どうか忘れないで、勝家」
理想や大義や主の為に武を揮うこと。生臭い愛情を守る為に死力を尽くすことは、自分にとってそれと同じくらい崇高なことなのだ。
勝家が護衛につけた精鋭達は、道中、市をよく守った。愛想の欠片もない武骨過ぎる主人ではあったが、主の市に対する愛情は知っていたし、この命を疎かにすることなど到底出来なかった。
実際、一度遠呂智の残党と遭遇したことはあったが、全員が取り乱すことなく敵と切り結び、相手がごく小勢だったということも幸いして、首尾良く切り抜けたのだ。市は懐に隠した武器を取り出す暇も、馬を走らせる間すらなかった。
しかし、見知った者のみが周囲にいる城内とは違い、市の耳には様々な話が飛び込んでくる。
長い道中、行く先々で取った宿で、市は奇妙な噂を耳にした。
この世界に来る前に幻を見た、という話。
はじめは、気にも留めなかった。
当たり前のことだが、自分がこの世界に不安を感じているように、民もそうなのだと思い込んだだけだった。
それでも、自分が二つに別れ、一つは元の世界に、もう一つは此方に飛ばされた、という話には顔を顰めそうになったし、年端もいかない息子が余りに真に迫った様子で自分の死に様について語る、我が子は気が違ってしまったのだ、という名も知らぬ女の訴えには深く同情もした。勿論、それらを市に直接吹き込んでくる者はいなかったが、どうしたって気にはなる。
その内に、別のことが気になりだした。勝家の許から長政のいる城まで、何処に行っても人はこそこそとそんな話を続けている。我慢ならなくなって護衛の者にひっそり尋ねてみたが、彼は困ったように「そういう話は私も聞きました」と言葉少なに答えただけだった。
不安によって語られた根も葉もない流言であれば、まだ良い。そんなものは戦場でも、平時の屋敷の中ですら語られるものだ。しかし。
「…噂にしては内容が一致し過ぎている?」
勝家の居城である北ノ庄付近の村で聞いた内容。そして今、長政のいるところまで後一歩、というこの地においても語られる話。
語り継がれることによって内容が無責任に変化していく唯の噂話にしては、信憑性があり過ぎた。それは度重なるあり得ない出来事に不幸にも発狂してしまった者の戯言ではなく。
「もしかして、私が偶々見ていないだけで…本当だとしたら」
長政は、自分の顛末を知っているのかもしれない。その可能性に、市は身が竦んだ。
となれば、自分は彼にとって、己を屠った憎い仇敵の妹の筈である。そしてもう一つ。
「もしかしたら、勝家は、私の最期を知っている?」
彼と添い遂げたのであれば、自分の方が先に死ぬ可能性もある。或いは、自分を残して、勝家が?ともすれば二人、共に。
それは平穏無事な終わりだったのか、それとも。
かといって今更引き返し、勝家に問い質すことなど出来ない。どれだけの道程を経てここまで来たと思っているのか。一体何日――いや、何日かかったかなど思い出せないのだから今はそんなことを考えても仕様がない。そもそも引き返せたとしても誰がそんなことを聞けるだろう。
「勝家、貴方は自分がどうやって死んで、私がどう命を終えるか、知っていますか?」
そんな残酷な問いを一体誰が口に上らせることが出来るだろう。そう、きっとこれはただの噂なんだわ。
僅かな不安を押し殺しながら幾つかの町を通り過ぎ、何度目かの慣れぬ宿での夜を迎え、果てなど到底あると思えない荒野の果てに馬に跨る数人の人影を見た市は、手綱を握りしめ凍りついた。三つ盛亀甲。夢にまで見た長政の旗印だ。出迎えに来てくれたのか、それとも。
最悪の展開を予想しながらも、市は操られるようにふらふらと騎馬武者の集団に近付いて行く。
その中央にいる人物が誰なのか、今更考える必要などなかった。
距離が縮まるにつれ徐々に視界が鮮明になっていく。騎馬を従えた中央の男が、市を見て微笑んだ。笑みを形作った唇がそのまま言葉を紡ぐのが分かる。「会いたかった」「市」「無事で」文章にならぬ様々な言葉を、彼の口の動きから読みとった市の呪縛は、やっと解けた。
足に力を込め思い切り馬の腹を蹴る。
「長政様!」
救われた、そう思ったのだ。本当に。
会いたかった、というよりも、愛おしい、などというよりもずっと鮮明に、心の底から思ってしまったのだ。
救われた。彼は――私を見て微笑むことの出来る彼は、きっと、何もかもを覚えてなどいまい。
ああ、浅ましい。救われた、だなんて。
身勝手で自分本位なその考えを、誰かが罰しようとでもしたのだろうか。
叔父貴…ごめん!!!!><。
(10/12/02)