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八、

 

 

幾つかの不安を押し殺したままそれでも流れる平穏な日々の中で、それでも小競り合いは幾つかあった。
勝家と共に過ごし、また長政の許への旅を市が続けている間、長政は自分と兵の為の拠点を幾つか作り上げ、遠呂智の残党と戦っていたらしい。浅井軍の顔ぶれの中には、市の知らぬ三国の英雄が数人、混じっていた。
 
「信長の妹だって?…あんまし似てねえな」
 
堂々たる体躯を見せつける為か、それとも身軽な戦いを身上としているのか。何故か半裸で城内をうろつく男にそう言って顔を覗きこまれた時には、何たる無礼だと不愉快さも感じたが、長政が実に嬉しそうに彼に頷くものだから、思わず微笑んでしまった。
 
「そうなのだ、甘寧殿!市は美しくて某とは比べ物にならぬくらい頭も良い。某には出来過ぎた妻だ」
「いや、俺はお前の感想なんか聞いてねえし」
「それに市はこう見えてとても強い。本当に某は素晴らしい妻を迎えられたと思っている」
「へーへー。仲がお宜しいこって」
「そうだ!仲が良いぞ!」
「…こんな旦那であんたも大変じゃね?」
 
黙って笑みを向けると、甘寧はにっと笑い返し、市の背中を軽く叩いた。
参った、この甘興覇様の完敗だぜ、と言うこの男の本質は、至極優しいものなのだろう。
 
ところで市のことを強いと評してくれた長政は、しかし市を決して戦場に立たせようとはしなかった。
とは言え、城を守るのも大事な役目である。市はそれに不満は覚えなかったが、不安はあった。夫を戦地に送り出す身としては当然のそれとはまた違う、彼の末路を知っているからこその、具体的な、まるで手に取ることの出来るくらい明確な、不安だ。
それに苛まされることはあっても、誰がこの生活を手放したいなどと思っただろう。
 
この時までは、本当にそんな風に考えていたのだ。
 
その日も、遠呂智の残党が領内(それはきちんとした浅井領ではなかったが、この混沌の中どの勢力も同じように曖昧な領土を抱えていた)で見つかり、長政はその討伐に赴くところだった。
 
「俺がきっちりあんたの旦那を守ってやるよ」
 
指を鳴らしながらそう告げる甘寧に頷き、「ならば某も甘寧殿を守ろう!」と槍を掲げる夫を見上げ、その眸の中に奇妙な決意を読みとった市は、身を強張らせた。「市、そなたは織田に戻り、某が迎えに行くのを待っていてくれ」この世界ではあり得ぬ筈の夫の声が甦った気がした。
 
「案ずることは何もない、市。某はもう二度と、そなたを泣かせたりはしない」
 
もう二度と。
 
彼の中に少なくとも一度は、自分が泣いた記憶があるとでも言うのか。
 
忘れかけていた噂を唐突に市は思い出す。彼の頭は一体何処までを記憶しているというのだ。いや、それ以上に恐ろしい事実に市は気付く。
そもそも、死んだ筈のあなたは一体いつ、何処の世界から此処にやってきた何者なの?
 
長政達を見送った後、どうやって自室に戻ってきたのか、覚えがない。
凄まじい嘔吐感に襲われ、懐紙で必死に口を覆い蹲った。呑み込んだ唾液すら押し戻そうとする感覚は、通常の嘔吐とは違い、臓物全てが何もかもを拒絶しているかのようだった。胃を空にしても押し戻されてくる胃液に咽喉を焼かれるようなひりつきを感じ、慌てる侍女達に褥に押し入れられ、差し出される器に止め処なく溜まり続ける生唾を見ながら考える。
長政様は、誰なの?
こんな奇妙な問い掛けなどない。頭がぼんやりしているのはきっと吐き気の所為なんだわ。
滲む視界に映る柱、壁の染み、布団の皺。全てを押し戻そうとする臓腑以上に、目に映る何もかもは市に余所余所しかった。それは、自分の記憶そのままに作り出された光景のように。
長政様は、誰?
その問い掛けに何かが制止をかけた気がしたが、疑問は脹れあがっていった。悪夢に変わろうとする夢を、夢と分かっていて必死で軌道を修正しているかのようだった。そんな夢は、長政が死んで以来何度も何度も見たことがある。目覚めたこともあったし、ずるずると悪夢に引き摺りこまれることもあったし、夢を修正することすら出来た。
そのどれが正しいのか、もう市には分からない。
初めて思った。
死んだ方がましなんじゃないかしら。
 
その後気を失うように襲い来た眠りの中で、市は何度も何度も夢を見る。隣に立っていた男は、長政から勝家に変わり、勝家は急に長政になった。誰かの名を叫ぼうとしたが、口から洩れる声は微かな呻き声になっただけだった。城が落ち、長政の首を落とし、兄を殺し、母が――たおやかで優しかった筈の母が、自分の屍を掲げて笑っていた。その足元に転がる勝家。勝家は何故か三節棍を握っていた。そんなものを持っているからだわ。死んだ筈の自分が叫ぶ。何故そんなものを持っているの、勝家。この斧は儂の誇り。お市様とその夫君を守るもの。地に伏したままの勝家が言う。違うわ、それはあなたの得物じゃない。何を仰せか。
それきり、全てが消えた。
暗闇の中で自分は必死に名前を呼ぶ。長政でも勝家でも、兄の名でも構わなかった。誰かの名が口から零れ出たら救われるのだと何故か思ったが、唇はぴくりとも動かなかった。当たり前だわ、私は死んでしまったのだもの。夢を見ている市がそう呟く。
 
それは完璧な悪夢だった。
 
心中に潜む願望と不安が巧妙に形を変え姿を現したのが夢だとしたら、私は何を望み何を恐れているのか、変に冷静にそう思ったのは、死んだ自分だったのかそれとも夢を見ている自分だったのか。
分からない、そう思った瞬間目が覚めた。
夢の続きを見ているようで、思わず勝家、と言いかけ、慌てて長政様と呼びかけて――悪夢から醒めた自分が一人ぼっちなのを市は知った。
枕に出来た涙の痕も、握り締めた掛布も、その為に白くなった己の指すら、市に見える全ての世界は、まだ彼女に余所余所しいままだった。
 
「もう良い。楽になれ」
 
身を起こした市の背中を誰かがそっと撫でる。母様?思わず言いかけた。もしかしたら口に出していたかもしれない。
振り返って、己の背を擦る者が身覚えない、頭上に光輪を頂いた人物であるのを認めてすら、市は童のような仕草でもって彼女に抱き付いた。女は、然して慌てた風もなく、ただ市を抱き止めただけだった。
 
「夢は醒めるから夢なのだ。お前は長い悪夢を見ていただけだ、分かるな?」
 
いつか目覚める夢。終わるのだ、その中にいる自分も長政も共に。
 
「良い子だ」
 
女はそう言って抱きかかえるように胸に押しつけた市の頭を撫でる。いずれ、全てが終わる。
 
「いずれ?」
 
嫌です、と市は頭を振る。何度も。今、この瞬間に全てを終わらせてください。
市の訴えに、女は眉を顰めた。
あなたは夢を終わらせられるのでしょう?裡に生まれた確信と共に市は叫ぶ。ならば今、何もかもを。
 
「お前が消えればお前の夢は何もかも消えるのだぞ」
「私の夢を形作っていた者も?」
 
長政も、兄も、あの甘寧とか言う粗野で優しい男も?女は何も答えなかった。私は昔、兄の真似をして、城を抜け出す彼の後を付いて行こうと必死に。
何故自分がそんなことを思い出したのかさっぱり分からなかった。
うつけと評判だった兄の奇行を周囲は止めなかったが、織田の姫君の唐突かつ無計画な脱走は勿論見逃してもらえなかった。娘に、何故?と尋ねられた母は、何も言わなかった。
市は、もう一度同じことを叫ぶ。
 
「ならば今、何もかもを消してください」
「お前が消えればお前の世界は何処にも存在しない」
 
長政様の世界は?長政様に従う家臣達は?彼と共に遠呂智残党の征伐に向かったあの男は?
 
「いずれ。いずれ、彼らの世界も終わる」
 
では戦に臨む主に深く頭を下げ、今でも城門を守っているあの見張りの兵は?さっき、私の為に慌てて夜具を整えたあの侍女は、
 
「全ての者は消え、世界は終わるのだ、分かるな?」
 
私をここまで連れてきてくれた者達は――そう、勝家は?ごつごつした掌の感触をふと思い出した。それは随分昔のことだったような気もするのだけど、記憶は昨日のことのように妙に鮮明だった。
荒野に浮かぶかのように聳える場違いな城門。巻き上がる砂の香りまではっきり覚えている。
一瞬、何故その記憶だけが鮮明なのだろうと思ったが、それに構ってなどいられなかった。
 
もう二度と悪夢を見ないですむという誘惑と、違えてはならぬ約定。夫を捨てる、その背信とも言える行為に紛れこませた、ささやかな意地。
 
「消えるのも詮無きこと。そうであれば私は従うまでです。ですが」
 
女に縋っていた指を引き離し、市はじっと前を見詰める。
 
「せめて長政様と共に。そして勝家が消えてしまった後に」
 
共に幸せになる者を失えば、悲しむのは人の性。己の幸せを願ってくれていた者の喪失を嘆くのは、人の常です。
だから皆、それに必死に抗うのだ。不条理な自身の消失に。
 
市はそう言って、懐を探る。隠し持った武器は使い慣れた得物ではない、ただの懐刀だったが、ないよりはましだった。
 
「それまで悪夢に苛まされることを望むのか?」
 
女の腕が動き――てっきり何らかの攻撃を受けると思った市は一瞬身構えたのだが――その腕がしっかりと市を支えるように抱きかかえる。兄の後を何故追ってはいけないのかと泣いた娘に、母はこう言ったのだ。
いつか、あなたが外の世界を見ても崩れないくらい強くなったら、必死で後を追いなさい。兄でも、それはもしかしたら兄ではなくても。
ああ、母の言う外の世界とは何処のことだったのか。女の声に市は小さく、だがしっかりと頷いた。女は嘆息に紛れさせた声で囁く。
 
「それでも、どうしようもなくなったら、願うと良い」
「ありがとう」
 
と、市は目いっぱいの涙を湛えて言った。視界は酷く霞んでいたが、眸からは一滴の涙も零れなかった。
 
 
 
 
 
妲己を討ち取った訳でも遠呂智兵と切り結んだ訳でもないのだ。
女カにとって誰かの許へ煙のように忍び込み、人の子を一人消すことは、息をするほどの手間すら要らぬ筈だったし、実際そうだった。縋る者の手を取り、恐怖を宥め、消えかかっている人の子の最後の欠片が完全になくなるまで見守ることは、女カにすれば当然の仕事であり、それ以上に使命そのものなのである。
が、身体の芯が痺れるような疲労を感じる。
 
あの天を掴みかけた男と、悪夢に涙を流しながらも此方をしっかりと見据えた娘に会ってからだ。
 
「何故だ?こんな馬鹿げた悪夢のような世界から現実に戻ることを何故拒む?」
 
傍らに座った伏犠は何も答えなかった。それは良い。女カとて、答えが欲しい訳ではない。
だが思う、何故人の子は時折予想もつかぬ行動をするのだ。何故ああも。
 
その先の言葉は続かなかった。往生際が悪い、思慮に欠ける、妙な恐怖心から、或いはそれ以上に妙な意地から。思い付く言葉の全ては、どれもしっくりこないような気がした。
 
「女カ、分かっておろう?今は非常事態じゃ」
「だから何だ」
「馬鹿正直に言わんでも良いじゃろう。この世界を完全なる夢だと思い込ませ、ただ消すだけで良い。彼らは死なぬ、少なくとも元の世界では存在し続ける」
「騙すのか?」
「人聞きの悪いことを申すな。余計なことは語らず、そういう方法もあると言っただけじゃ」
「貴様はそうやって人の子を戻しているのか?」
 
伏犠は笑っただけだ。そういう態度が女カには気に入らない。神を名乗る癖に、この男には時折そういうところがある。
一途な真摯さに褒めそやされる美徳など本来はなかろうが、しかし真剣さを出せぬことも問題だ。
 
「生殺与奪が神の業じゃぞ?女カ」
 
ならば、と女カは叫びたかった。何故私には生かすことが出来ないのだ。これではまるで無力な人の子の親のようなものではないか。
力のない子を殺めることなど簡単だろうが、逆の例など掃いて捨てるほどある。どんなに親が願っても子が死んでいくことが――勿論、私の目的は彼らを消すことにあって、この馬鹿げた世界で生き延びさせることなど欠片も思ってはいないが。
それが救済だ。救いに理由も、ましてや善悪など要らぬ。
 
「この世界は、よう似ておる」
 
ふいに伏犠が外を眺めながら呟いた。女カは、黙りこくることしか出来ない。

 

 

お話のメインになる人が段々変わってしまうのは、とうこにはよくあることです…
うちの伊達さんと真田さん、何処行ったんだろうねぇ。
(10/12/06)