九、
人の能力を超えることは所詮、神にすら出来ぬ。それは充分承知している。
そう、神と呼ばれる存在になって悠久の時を経たかのように思える女カにも分からぬことがあるように。
この世の神など、元を正せば全て唯の人だ、そう考えれば納得はいく。だがむしろ、神となった今の方が分からぬことが多い気もするのは何故だろう。
まだ私が唯の人だった頃。
女カは既に神話となったかつての世界を思い起こそうとする。
あの、集落と呼ぶのもおこがましいような小さな小さな集合体、日々の生業のことだけを考え、時には小さな戦を起こし、そうして当たり前のように過ぎていく日々。
大好きだった母が死んだのは羊達の好む草がやっと生えてくるくらいの季節のことで、暦も何もなかった時代だから、母が死んだ日など正確には覚えていない。長患いで軽くなってしまった母の躯は、兄が背負って埋めに行った。
少しだけ、涙を流したような気もするが、嘆きはしなかった。
乱世などという理不尽な死に塗れた世界でなくても、そこはやはり身近に死が潜む原初の世界だった。
それでも共に暮らした者の死を悼む気持ちは昔も今も変わらない。
家中を覆っていた喪失感と共に亡き母の存在が薄れ、父の手伝いに明け暮れて、兄と屈託なく笑い合うことが出来るようになった時、世界の終わりは唐突に幕を開けた。
「川が溢れそうだって」そう始めに教えてくれたのは確か隣家の、ようやく畑に出られるようになったくらいの少年で――もう、彼の名ですらあの洪水に押し流されたかのように忘れてしまった。
氾濫は最も恐ろしい災害だった。田畑の実りは流され、時には何人もの人々が犠牲になった。水の脅威から逃れられてもその後蔓延する病魔に命を落とす者とて少なくない。
だがそれはあくまで、老人達が多少の教訓も含め昔語りに語るような何十年に一度の大洪水の中だけの話で、警戒を怠らなければ氾濫は収穫の為には欠くことの出来ない天恵ですらあった。
その証拠に、川の異常を知らせに来た少年は、どことなく不謹慎めいた好奇心を隠しきれずにいたし、自分もそれを認めて軽く笑ってすら見せたのだ。
何故って、この季節には普通に起こる類の事件だと思ったから。
あんな、地平線の先まで見渡す限りの濁流など、老人らの昔語りですら聞いたことなかったのだから。
風が凪ぎ、目に映るもの全てがその動きを止めた瞬間を女カはよく覚えている。これまで注意など払うことなかった、木々のざわめきも鳥のさえずりも何もかもが消え、完全に制止した地平。その直後に巻き起こった世界の逆流。
凄まじいまでの水量が地響きのような音を立てて向かって来た時、確かに女カは、世界が今正に自分達に牙を剥いていると悟ったのだ。
世界でなかったのならば、何かもっと別の。
神、などという言葉は勿論知らなかったが、到底太刀打ちできぬ、いや、触れることすら、目にすることすら出来ぬ、狂気に近い存在が我々を滅ぼそうとしているのだと悟った。
水の脅威から逃げようと周囲を必死で見渡したが、慎ましやかに肩を寄せ合って暮らしていた筈の人々の姿はもう何処にもなかった。一度激しい濁流に呑み込まれてしまえばどちらが天でどちらが地なのかも分からない。そう思いながらも自分と同じように呑み込まれた木切れに必死で手を伸ばし――後のことは覚えていない。気がつけばぐちゃぐちゃにぬかるんだ高台の上に突っ伏していた。もう立ち上がる気力さえなかった、立ち上がらなくても分かっていたから。
轟々と荒れ狂う水音は余りに大きく、耳が痛いほどの静寂にそっくりで、ここには誰も、家も羊も、草木も、母の墓さえも残っていないのだと。限界まで水を吸ったこの木片がやがて腐って跡形もなく朽ちていくように、間もなく自分も死ぬのだろう。
いずれ、自らの墓標となるであろう誰の家の残骸とも分からぬ木切れに未だ縋るように捕まりながらもうつらうつらと数日を過ごし、まだ瞼だけは動くのだなと何処か可笑しい気持ちのまま、ある日うっすらと目を開けたら、枕元に人が座っていた。ぎょっとする体力は勿論のこと、その者が誰なのかを認識する力など、最早残っていなかった。
だからそれが紛れもない兄だと、伏犠だと気付くまでに自分はかなりの時間を、もしかしたら数日もの時間を要するしかなかったのだ。
兄の運んでくる水で咽喉を湿らせ、僅かに残った草を口にし、また吐き下し、やっと自在に首を動かすことが出来るようになった頃、自分は、縋る対象を木切れから兄へと切り替えた。
兄に支えられ身体を起こし、もうこの男を兄とは思うまいと決めるのは、存外容易いことだったような気もする。
水の引き出した、そしてすっかり荒れ果てたこの地に、再び家を建て子を為し、日常を作るのだ。だが――女カにはどうしても思い出せない。
あの時の自分をそれだけの覚悟に追い遣ったものは、衰弱しきった身体を後ろから支えた伏犠の手だったのだろうか。
あの人知を超える大災害の後に、そんなことを思って奮い立つほど己は強かっただろうか。
きっかけはどうであれ、事実は確かに今の女カの身体そのものに証拠としてあり続けている。
多くの子を育てやがて身罷った女カは、その死によって不死を手に入れた。
大洪水を切り抜け、新たなる人の祖を生み出した彼女に声が告げる。その声は神になれと囁いた。我が作りし世を永久に見守る神であれ、と。
己が作ったものを大洪水で押し流し、かつその生き残りにそのような要求を突きつけるとは、と憤慨することすら出来なかった。
川の氾濫に姿を変えた世界の悪意、それは確かに、この眼前の得体の知れぬ何かから発せられたのだ。
最大限の畏怖を持ってして我知らず額づいた女カは、そうして神になった。
だが、御座成りの永遠を手に入れただけの人に何が出来るというのだ。通り一遍の戦う力は手に入れたが、突けば血も出るし、試したことはないが首を落とされれば己も死ぬのだろう。
私は、あの世界が秩序通り正しくあり続けるように見守るだけの神であった筈。強い祈りは意志を生み、意志は方向を決定する。神となってしまった女カには我が子の為に強く祈ることさえ許されてはいなかった。この異常事態が起こるまでは。
それが何故こんな訳の分からぬ世界で剣を携えもがいているのだ。
この世界と、そこに巻き込まれた者達の終焉を見たいのか。本当に?何故?終焉、違う。
私は唯、元の存在から分たれたあの者達を消し、きちんとした秩序に則ったかつての世を再び見守ろうとしているだけだ。しかし、何故。
自分の生み出した生き物の末裔だからこそ責任は持たねばならぬとでも思っているのか。あのような洪水など到底起こせぬ自分に何が出来ると。
だが、女カの中の何かは、この世界を滅ぼせと命じ続ける。世界を壊すことも、作ることすら出来ぬ己に、幾度もそう語りかけるのだ。そんなことが本当に出来る者がいるのだとすれば、それはかつて女カに膝をつかせたあの声の主だけだろうに。
そこまで考えて女カははたと歩みを止めた。
いや、一人だけ、本気で世界を作ることを考えた者が居た。女カは思わず柄を握り締める。
魔王・遠呂智。
しかし彼は魔王などではなかった。彼は世界から排斥された者、唯それだけの存在だった。
女カは、きっとカミサマになる前は結構普通の女の子だったと信じて疑わない。
あんまし道教設定関係ないけど、もとが遠呂智だからいいよね…ごみん。
(10/12/11)