十二、

 

 

ねえ、こんな風に考えたことはない?妲己は続ける。
 
「もしもそんなカミサマがいるのなら、さっさとこんな世界、閉じてしまえばいいのにって。そうすれば話は簡単だった筈よ。私や――もう此処に存在してる政宗さん達にとっては他人事じゃないけどね」
 
天も地も、右も左も分からない、そんな世界の果てで妲己は只管泣き続けた。
一人ぼっちでは泣けなかったの。でも縋るものが出来ると途端に怖くなる。
 
「目の前にいる遠呂智様を見る度に、私は、私がまだ存在してるんだって知ったわ。怖かった」
 
だから遠呂智様の足元に蹲りながら泣き続けたの。私を消して頂戴、せめて日常が欲しいと。遠呂智様はちっとも分かってないようだった。
風に乗って流れてくる夕餉の香り、仲良しの友達と顔を見合わせてくすくす笑うあの感じ、愛しい人と見上げる空だって、それこそ叩きつけられるような殺気も悪意の篭った他人の眼差しも。
そんなことすら彼は知らなかったんだもの、当然といえば当然よね。
 
「けど彼は彼なりに望みを叶えてくれた。私だけの世界を作ってくれた」
 
この広大な荒れ果てた世界は、遠呂智が妲己の為だけに作ったのだ、見よう見真似で。一人ぼっちの世界?そう笑ったら、物怪すら何処からともなく引き連れて。
何処からどう集ってくるのか、物怪の数はどんどん増えていった。人が、増えていくように。まるで。
 
「本当に、世界が出来たみたいって思ったわ」
 
住んでたのは厳密には人じゃないけど、それに一体何の意味があるの?大事なのは天があって地があって、見渡せば何か動くものがある、私にはそっちの方がとりあえず意味のあることだったわ。
その中心に遠呂智がいた。
 
「そしたら今度は遠呂智様が仙界に連れて行かれちゃったわ。世界を作った罰、ですって」
「この世界を消さずに遠呂智だけが連れ去られたのか?それこそ」
 
その時に、こんな世など消してしまえば良かったものを。毒突きかけた政宗は、視界の端で幸村が首を振ったのを見て黙りこくった。
こんな世界、だが妲己にとっては唯一の拠り所であった筈なのだ、此処は。
 
消せないのよ。
部屋に落ちた不気味な沈黙を振り払うように妲己は叫ぶ。
一旦出来上がってしまった世界は、カミサマでも消せないんですって。
 
遠呂智を捕らえた男――太公望と名乗った彼は、吐き捨てるように世界の仕組みをたった一言だけ説いた。かつて自分を屠った軍師、だが妲己が彼を見るのは初めてだった。
 
どうして。
 
「遠呂智様を連れて行っちゃうのよ」
「我らでも消せぬものを作り上げたとは。厄介なことだ」
 
世界の仕組みなど妲己にとってはどうでもいいことだった。本当に叫びたかったのは、そのことではなかったのだから。どうしてあなたはいつも私の世界を奪っていくの?本当に尋ねたかったことは声にならなかった。
立つべき地が有り、空と名の付くものが頭上に広がっていれば、それは世界だとでもいうの?違うの、本当は違うの。天地があっても生き物が蠢いていても、この地はまだ世界にはほど遠い。
足りないものがあるのだ。
蹲ったまま、遠呂智様、そう呼び続けた自分に、彼は侮蔑とも憐れみともつかぬ視線を向けただけだ。
 
「…もしや妲己か、本当にここにいるとは思わなかった」
 
生前の偉業により神になった筈の青年は、妲己の疑問には答えてくれなかった。妲己が武器を手にしようと思ったのはその瞬間だった。
 
「神、ですか?」
 
幸村は思わず顔を顰める。先程政宗が挙げた神の名も知ってはいたが、前の世界では到底口に上ることなどなかった存在だ。
少しばかり早まった動悸の中で思う。この世界ではそんな言葉が溢れ過ぎている。そういえば蜀で共に戦ってくれたあの不思議な老人は何と言ったか。確か神ではなく仙人と。
 
「仙人のなり方、教えてあげようか、幸村さん。薬を飲むの、簡単よね。それだけで人は不老不死の力を持てる。薬を作る知識もそれを呑む胆力も、自分自身で作り上げなきゃいけないけどね」
 
故に彼らには自由が与えられる。左慈さんが気侭な暮らしをしていても、曹操さんを揶揄っても、劉備さんに肩入れしても、誰も何も咎めない。だから、なりたがるのよ、皆。
 
「あいつは違うわ。一旦死んだ筈なのに、世界を作ったカミサマにそうであれと命じられて役目を与えられただけ。戦う力も何もかも、人とは変わらないのに、世界を見届ける使命だけを持っている。それが神」
 
可哀想よね。妲己が事も無げにそう告げた相手は、太公望と呼ばれる青年にだったのか、それとも自分自身にだったのか。
聞くべきではなかった。
俯くことしか出来ぬ幸村の背を、静かに政宗が撫でた。それを僅かに目を細めて見詰めながら妲己が言う。
 
「ごめんなさい、本当はよく知らないけどね。でも私にはそう思えた」
 
だってあの子は、私如きの疑問にも答えられなかったのだから。
神といえど全てが分かってる訳じゃない、だったら私にだって敵う筈だと考えたのよ。実際私は奴らの手から遠呂智様を取り戻したわ。消えたいなんて願っていたのが嘘のよう、なんて思いながら。
ついでに、思ったの。人と然して変わらぬモノが人を見守り続ける、それってどんな気分なのかしら。
 
「そ奴らが現れたのは貴様を屠る為にか?」
「私じゃないわ」
 
そうだ、彼らの目的が妲己と遠呂智成敗であったなら、疾うに行動を起こしていた筈。
 
「世界には、限りがあるのよ」
 
それはその通りだ、幸村は思う。
父と兄と暮らしたあの館、守るべき国境、雪深い越後と賑々しい大坂、愛しい竜の棲む北の大地。
幸村の知る世界なんてその程度のものだったけど、かつてのそれは確かに優しかった。少なくとも自分が存在することを赦してくれる程度には。
戦で身体が竦んだことなど一度もなかった。これは最早戦などではない。自分は己の誇りを懸けて戦う術しか知らぬ。
存在すら赦さぬと斬りかかってくる世界そのものに抗う手段など、知らぬのだ。
 
「幸村」
 
呼びかける政宗の声は震えていて、幸村はやっと我に返る。そんな声音で名を呼ばれるのは何度目だろう。その度に自分は拙いながらも笑顔を作って政宗を見詰め返して――反射的にいつもの通りの笑みを浮かべた幸村に、政宗は小さく息を吐いた。
まだだ。まだ私の日常は崩れていない。
それが、名を呼び笑いあう、甚くささやかなことだとしても。
 
「あなた達は私や遠呂智様とは違うわ。あの世界を作った奴から摘み出された私達は、既に彼らの範疇にはないの」
 
世界から弾き出されることが私達にとっての断罪だった。そして世界の守人たれと定められた伏犠と女カ、そして太公望は、彼らの世界からはみ出した私に彼らの力をもって手は下せない。もしも私を殺そうと思ったら、人と同じように武器を取り、私の首を掻き切ることしか出来ない筈よ。
でもあなた達は違うわ。
 
「事故みたいなものよ。ちょっと弾き出されちゃっただけ。さて問題よ。この世界は消せない。異世界の住人たるあたしも遠呂智様も、彼らには直接屠ることが出来ない。彼らの使命は自分達の世界の子らを守ること、秩序も含めてね。ねえ、もう分かるでしょう?カミサマは、自分の箱庭とそれを作っていた部品以外に興味なんてないのよ、きっと」
 
ごくりと政宗が息を呑む音が耳に障る。或いは、自分の。
 
「伏犠と女カは、一体誰をどうするつもりでここに現れたのかしら?」
 
妲己に言われずとも答えなど分かっていた、そう、疾うに。
扉の向こうから、じっと此方を窺う視線を感じる。あれは恐怖が生み出す妄想などではなかった。幾度も幾度もそれが誰なのだと尋ねずとも、本当は分かっていた。
 
世界が、神が見張っているのだ。或いは神の代行者が。戯れに小動物でも狩るように、そっと、息を潜めて。
 
 
 
黙りこくった妲己の膝の上で、卑弥呼が身動ぎをする。何故か幸村は慌てて娘の頭をそっと撫でた。子供は決して嫌いではないが、見ず知らずの娘にそんなことをするのは生まれて初めてだった。
我に返って手を引っ込めた幸村の後を請け負うように、妲己が卑弥呼の背をそっと擦る。満足気に大きな息を吐いた後でも、卑弥呼は目を覚まさなかった。
あの荒野をたった二人で歩いてきたのだろうか、幸村は考える。
娘の為に床の用意を命じた政宗も、きっと同じことを想像したのだろう。人となりどころか、正体も分からぬ少女ではあったが、彼女の為に自分達が出来ることは暖かい夜具を用意してやることだけのような気がした。
 
「いい子なのよ」
 
何故か苦しげに妲己は言った。
 
「本当に、本当にいい子なのよ、この子」
 
この時自分は尋ねるべきだったのだ。
遠呂智の世界に身を置きながらも前の世界の範疇とやらから抜け出せないでいる自分達。そして弾かれることによってまだ前の世界を引き摺っている妲己。
 
 
 
では、この少女は何処の世界の者なのですか、と。

 

 

大した設定ではないですが、この手の話を書き起こすのは苦手です。分かるか!
仙人と神の違いは道教ベースの捏造です。これも言わなくても分かるか!
作中の太公望の台詞から察するに、遠呂智様は随分長いこと牢に繋がれていたようですが、ここでは無視させてもらってます。
つーか、遠呂智世界に時間の概念とかあるのかしら?ってことも含めて。
 
範疇云々に関しては、10年以上前にちょうベストセラーになったとある本をヒントに。
範疇、という言葉は使用されていなかったと記憶しているんですけど…。
(10/12/28)