十三、
少しずつではあったが、伊達軍の機能は変わっていった。
領主という絶対的な存在を担ぐ緊張感は決してなくなりはしなかったが、政宗を中心とした集団の中に、かつてない親密さが流れ始めたのはこの頃からだったのだろう。それは総合して考えれば決して悪いことではなかったのだろうが、確かに戸惑いも否めぬものだった。
慣れぬ手つきで鍬をふるい、水路を作り、時には遠呂智の残党と事を構えたりはしたが、その様はあたかも原初の世界――卑弥呼のたどたどしい言葉から幸村が勝手に思い描いた――に似ていた。
政宗を長とする集団は、まるで家族のように身を寄せ合って一日一日を過ごす。
それがどんなに捕え所のない、昨日と今日と明日という連続であっても。
領地や村々を庇護するのではなく、報酬の発生する契約によって守ることを決め、年貢や、徴兵すら廃止してしまった政宗は、それでも忙しく振る舞っていた。すっかりなりを潜めたとはいえ、遠呂智の残党の脅威は未だに根強かったし、ならず者は、時に徒党を組んで人々を襲った。
勿論それらは政宗や幸村の武威を脅かす程ではなかったが、言わば傭兵集団のようになってしまったかつての伊達軍には、たくさんの仕事があった。
そんな集団において、未だ異質な存在であった妲己が受け入れられたのは、卑弥呼の力が大きかっただろう。保護すべき者が目の前にいる、しかもそれはまだあどけない娘の姿を纏って。
そのことは言葉に出せぬ不安に身を苛まされた者達にとってすれば、日常の象徴であり、ある種の希望であったに違いない。それはあくまで、後から思い返すにおいて、ではあるが。
卑弥呼は物事を何一つ知らなかった。
紙の上を滑る政宗の筆に驚き、政宗は卑弥呼が文字を知らぬことに驚き、変に面倒見の良い政宗は四苦八苦しながらも彼女に文字を教えた。騎乗した成実を訝しみながらも遠巻きに見ていた彼女だったが、昨日はその成実に馬に乗せてもらったとはしゃいでいた。くるくると落ち着きなく怪我が絶えない卑弥呼の指に刺さった小さな棘を抜こうと骨を折っていた妲己の代わりに、小十郎が手当てをしたりもしたらしい。
指に巻かれた包帯を半ば自慢げに見せつけてくる少女に幸村は破顔した。向こうからどすどすと足音荒く近付いてくるのは政宗で
「文字を覚えたいと言うたのは貴様であろう?!途中で逃げるな!」
「覚えたいなんて言うとらへんもん。何や、それって聞いただけや!政宗うっさいわ!」
それにうち、妲己ちゃんの名前書けるようになったんやで、と卑弥呼はぐしゃぐしゃの紙を懐から取り出し、にっと笑った。
幸村の傍らにいた妲己が少しだけ困惑する。
それには気にも留めず、卑弥呼は皺だらけの紙を丁寧に伸ばすと無造作に妲己に渡し、言った。
「これ、妲己ちゃんにあげるわ。政宗も上手だって褒めてんで?」
「褒めてなどおらぬわ!はじめて間違えずに書けたと言うただけじゃ!」
「同じことや」
政宗の手を擦りぬけるように庭に走り出た卑弥呼は、両手を口にあてて叫ぶ。
「政宗、手合わせって奴してや!」
「は?手合わせ?」
「成実が言うとった。どっちが強いか決める遊びなんやろ?うち、強いで!…成実には負けてんけどな」
「成実如きに勝てぬ奴が儂に勝とうなぞ百年早いわ!大体餓鬼相手に全力出せるか!」
だが面倒見の良い政宗は付き合う気満々のようだ。手加減してあげてくださいね、と卑弥呼には聞こえないように政宗に囁いた幸村の背後で、妲己が静かに紙を懐にしまった気配がした。
紙って便利よね、こうやって持ち運んでも普段は重さなんて感じないんだもの。
妲己の呟きに幸村は答える術がない。それは冷酷無比な遠呂智軍の軍師であった女の一言とは思えなかったので。
政宗との手合わせは、勝負がつく前に片が付いてしまったようだ。睨み合いに飽きた卑弥呼が武器を放り出し庭先の花を摘み出したのが原因である。
熱心に花を手折る少女の姿は、平和過ぎる、まるで作りものの書き割りの中の世界のようだと思った幸村は身震いして視線を外した。と、同時にその光景をぼんやりと眺めるかつての仇の姿に気付く。
幸村はそっと妲己に近付いた。何をしておいでなのですか、と尋ねるつもりが、口は全く違う言葉を紡いでいた。
「何故あなたは、そのようなところにずっと」
人であった筈なのに。想像も出来ぬ世界の果てで、何故。
そんな重い罪業など私には思いつかない。
さすがにその質問を紡ぐ前に口は閉ざしたが、妲己はすぐさま幸村の真意に気付いたらしい。うーん、と首を捻ってみせたがすぐに、ああそうか、そうよね、と手を打って笑う。
ともすれば卑弥呼よりもずっと無邪気な笑みだった。
「そうよね、幸村さんは詳しく知らないわよね。殷朝最後の皇帝を色香で滅茶苦茶に惑わせた悪女。聞いたことない?たった一人の女の為に帝は乱心し、政はあっという間に機能しなくなったわ」
何が起きたのか分からぬまま、手を引かれ車に乗った。付いたところは夢のような宮殿で、如何にも偉い人たちが唯の娘に恭しく傅く様が物珍しくて、色とりどりの着物に目が眩んで、気付いたら自分はあっという間に后と呼ばれる人物になっていた。
「ここから先は行っちゃいけない、そんな口を利いてはいけない、面倒なことも多かったわ。でも楽しかった。楽しかったというより面白かったのかしら。そうしてまた気付いたら、ある日突然私は、后じゃなくて傾城の悪女って呼ばれるようになっていたの」
政も戦も分からぬ小娘の手を先に放したのは、色香に溺れ乱心したはずの帝だった。それが悲しむべきことなのかも分からぬまま、風の噂に彼が周との戦に赴いたと聞いた。本当は何が起こっているのか誰にも尋ねられないことに業を煮やし、殆ど自力で歩くことのなくなった足で必死に宮殿を抜け出して。
そこで後ろから「袈裟懸けにばっさり」。
妲己はそう笑う。
「逃げた妲己を斬ったぞ、と誰かが叫んだわ。私は違うって言いたかった。逃げたんじゃないの、会いたかっただけよ」
「…あなたは」
風に乗って流れてくる卑弥呼の笑い声が幸村を遠い異国の昔話から現実に引き戻す。「なあ、幸村は政宗の嫁さんなんか?」確信の篭った無邪気な疑問、かつては自分もあんな口調で大人にものを尋ねていた(質問の内容はさておき、だ)。否定であれ肯定であれ、必ず答えが返ってくることを信じ切っていた。
「嫁?まあ嫁というかな、伴侶じゃ」
「はんりょ?」
「あー、何じゃ、ずっと共におってな、添い遂げるというか何というか、そういうもんじゃて」
歯切れの悪い政宗の答えに、卑弥呼はあっさり「それを嫁さんと言うんやて。政宗、頭悪いなあ」と幾分か得意気に断言してみせる。
「幸村さん、愛されてるのねえ」
妲己が呑気に呟いた。あんな政宗さん、見たことなかったわ。
思わず口の中だけで、馬鹿なことを、と毒づきかけた幸村は、妲己の表情が案外真剣だったことに初めて気付く。
あなたもかつてはそうだったんでしょう?大事な人たちの中で、いつかその中の誰かと人生を共にするのだと信じて、嫁いだ先に幸福があると疑わぬ少女だったんでしょう?
言葉を失った幸村から視線を逸らし、卑弥呼を見詰めたまま妲己はそっと囁いた。
「ねえ、こんな遣り取り、ずっと忘れてたわ」
「こんな?」
「信じられないかもしれないけど、私も笑いながら言ってたのよ、馬鹿って」
「…やはりあなたは」
裁かれるようなことなど何一つしてないではないか、その言葉を幸村は必死で呑み込んだ。そんな廻り合わせの女は、いや人間は幾らでもいる。彼女は必死で隠している、と思った。
恐らくは、紂王と自分にしか分からぬ何かを隠したまま淡々と話しただけだ。そしてそれは至極賢明なことのように幸村には思えた。
だがその聡明さが彼女を縛り付けているのだとも思う。
「悪くない、なんて言わないでね。為政者に名を連ねるものが政の一つも知らないなんて、それは確かに糾弾に値することだったのよ」
それは、きっと彼女の中で真実になってしまった嘘なのだ。幸村には妲己の話の続きをじっと待つしか出来ぬ。
けど何故だか、この女に嘆き暴れて欲しかった。
かつての夫も臣らも、運命さえも罵る彼女が見たいと思った。だが妲己の表情は一向に変わらない。顔に笑みを貼り付かせたままで彼女は喋り続けるのだ。
「…裏切られたとは思えない、でももう会いたいとも思えない、今更どうこうしようと思う気持ちどころか未練も、後悔すらないわ――それでも私は、あの人をきっと愛してたの」
卑弥呼が花を放り投げて妲己に大きく手を振る。庭先で遊ぶ彼女の姿は、随分遠くにいるもののように幸村には思えてならない。
「ごめんね、卑弥呼」白い手を翳してそれに答えながら――その屈託無い仕草とは裏腹な台詞を口にする妲己は、つい先日、必死で槍を振るう幸村を嘲笑したのと同じ女には見えなかった。きっと何処かに置いてきてしまったのだ――そう思い掛け幸村はぞっとする。
「元の世界」の政宗と自分。
骨ばった手を取り合い、睦言を囁き合っても、かつてこんなに長い間共に時を過ごし、甘え頼る姿など周囲どころか互いに曝け出したことはなかった。
奥州の大大名であった彼と、真田の次男であった自分。あの時、私も、それをもう一人の己に託すようにあそこに置いてきてしまったではないか。
「私はあの人をもう忘れたいの」
妲己が紂王のことを忘れてしまっても、その事実は彼女の中では絶対に消えぬ。妲己は、それを完全に忘れ去らないために忘れたいのだろうと幸村は思う。
もしも自分だって――そこまで考えて幸村は、あなたにはその権利があるのだと叫びそうになる己を必死で叱咤した。
自分が声の限りにそう叫んだところで、きっと彼女は救われない。けど、死を迎えても消えることが叶わず、どころか忘れることも出来ない、それほど苛烈な罰が他にあるだろうか。
彼女は、夫と、夫のいる世界を愛しただけの女だったのに。
「遠呂智様が世界を作ったなんて言うけど、この世界はきっとまだ完成してないのよ」
遠呂智様がまだ生きていた時は、どうだったのかしら?思い出せない。でも何かがおかしいって最近思うの。
「卑弥呼が摘んでるあの花は、一体いつから咲いていて、いつ散るの?『前の世界』の話を紡ぐことは出来るわ。でも誰もこの世界の話なんかしない。だってここには、話すべきことがないんだもの」
幸村には声を出すことすらできない。
まただ、またあの視線を感じる。
目を瞑ってやり過ごしてきたこと。書き割りのような世界、その裏から監視している悪意に満ちた幾つもの視線。
「でもこの世界が出来た時、私は時が齎す離別も心変わりも、死すらちゃんと思い出せた。私にはそれが一番の救いだった。ねえ、それを守ろうとして何がいけないの?」
「一つ、伺っても良いでしょうか」
なんなりと。此方を挑発するようなおどけた口調とは裏腹に、妲己が変わらず卑弥呼に振る手は優しかった。
「何故あの話を私達に聞かせたのですか?味方と兵力が必要であれば、魏でも信長公の陣営でも、他に手は幾らでもあった筈です。何故伊達を、政宗殿を選んだのですか?」
「…貴方達だけだったじゃない」
この世界に飛ばされた時、全ての者がたった一つのものだけを選んだように見えた。
劉備を救う策の為に月英を遠ざけた諸葛亮、夫のことなど二の次で孫呉の為に尽力した尚香、信長の許に馳せ参じた秀吉、彼の子飼と呼ばれていた者達はどうしたのだろう。呂布ですら、己の武の高みを目指す為に貂蝉と袂を別った。
「大事なものは本当はそれだけじゃないでしょう?目の前の人達とか自分の野望とか誇りとか、そういう、もう何の意味もないものの為に戦って、それでも互いのことを諦めようとはしなかったの、貴方達だけだったじゃない」
ばっかみたい。蜀なんてなくなったこの世界で、劉備さんに一体何の価値があるのよ。孫呉?三代続く江南の名家が何だっていうのよ。江南も、信長の威光も、そんなものもう何処にもないじゃない。前の世界の遺産にも似た大事なものなんかさっさと捨てちゃえばいいじゃない?そう思ってたの。貴方達も敵同士として会わせたらお互いのこと早々に諦めると思ったのよ。忠義とか矜持とか、そういう下らない遺産を言い訳にしてね。
妲己ちゃん!いつしか駆け寄ってきた卑弥呼を抱きとめながら、妲己は力なく笑う。
幸村の右隣――政宗の定位置だ――に腰を落ち着けた政宗が、敵同士という妲己の言葉に眉を顰めた。
「この世界と幸村さん、一緒くたに手に入れようとするほど政宗さんが欲張りで正直だって思わなかったし、蜀の為なら幸村さんはあっさり政宗さんを斬ると予想してたのよ。そしたら私は、所詮あんた達もそんなものだって笑ってやるつもりだった」
「それは――」
言い淀んだ政宗の代わりに、幸村は微かに微笑みながら言う。
「きっと、皆さんも同じだったと思いますよ」
諸葛亮だって、困惑する月英を見て本当は叫びたかったのかもしれない。秀吉が部下達を案じなかったなどと、尚香が、呂布が、貂蝉が愛しい者を思って泣かなかったなどと、何故言い切れる。
「貴女がそれを目にする機会がなかっただけだと私は思います。誰も、何も捨ててなどいません。個人としての感情であれば、とりわけ」
珍しくきっぱりと言い切る幸村を見上げて妲己は口の端を歪めた。泣き笑いのようだ、そんな顔もするんだな、幸村は思う。
それとも、もともとそういう女だったのだろうか。時の最高権力者に寵された挙句裏切られ、それでも愛していたと堂々と言ってのける女とは。
「遠呂智様が作った世界も大事よ?でも私は、自分が人として生きたあの世界も好きだったの。もう二度と会えないけどあの人が居たってだけで、どうしてもどうしても大好きなの。いっそ消えたいと思ったこともあったけど、今は」
潔くなんかないって思うわ。でも間違ってると言うことも出来やしない。
「私には貴女が間違っているようには見えません」
「本当に?本当にそう思う?」
本当は何度も頷きたかったが、それすらおこがましい気がして幸村は目だけを軽く伏せる。
「そして私は全てを忘れたいだけなの。無かったことにしたいんじゃない」
歴史書が随一の悪女だと伝えるこの女の言うことは真実だと幸村は身を震わせた。
それとも――真実を口にするからこその悪女であるのか。
駄々漏れですが、妲己ちゃんが好きです。
遠呂智キャラになる前から好きですw
妲己ちゃんはああ言ってますが、勿論、孔明や尚香ちゃん達の選択が悪いとは思っていません。
(11/01/08)