十五、
「ここ、どこや?」蜀に向かう道中、卑弥呼はそう尋ねたけど、いつだって成り立ちなど尋ねなかった。
「何もあらへんな、なんでや?」
「さあ…遠呂智様が作ったから、私には分からないわ」
始めてではあるまいに、荒野を見渡して場違いに明るい声を上げた卑弥呼に対して、妲己の様子はいつになく緊張し、ぎこちなささえ拭えぬものだったのだが、卑弥呼は首を傾げて、ふうん、と言っただけだった。
大人が自分に向かって真剣な話をしている、故に自分も大人っぽい対応を心掛けよう。
卑弥呼から感じられたのはそんなくすぐったさと(彼女からすれば)もの珍しさに裏打ちされた幼い矜持だけで、後は興味の欠片もなさそうだった。裏の家はあのおじさんが作ったのよ、そう聞かされた子供みたいに。
事実彼女は子供だったけど、家の成り立ちを知った時の方が感嘆するであろうと幸村はこっそり思う。
「おっちゃんが作ったんか?一人で?すごいなあ、どんだけ時間掛かったんや?屋根は何で出来とるん?なあなあ、どうやって壁を建てたん?」
目を輝かせてそう尋ねるであろう卑弥呼は、家の成り立ちを知っている。
土地を選び土台を掘り、柱を立て――彼女が前の世界で一体どんな住居に暮らしていたのか、断片的な卑弥呼の言葉だけでは幸村にはとんと見当がつかなかったが、少なくとも彼女は家というものがどうやって作られるかを知っている。
細かくは知らずとも人の手によりそれが作られたものであることは、少なくとも承知している。目の前に用意された飯の一つ一つの由来を知っている、だが。
妲己の話を思い出して幸村は身を竦ませた。
「だってここには、話すべきことがないんだもの」
政宗も同じようなことをかつて言っていなかっただろうか。この世界には語られる何もかもがない。
家がどうやって出来上がるか、稲がどうやって実を結ぶか――そして世界がどうやって作られたか。
盤古によって支えられた天地。鉾でもってかき混ぜられた混沌。
それはただの神話で、しかし神話と言えど、世界のはじまりを知らなければ自分と世界の境界線すら分からない。
広漠とした荒野は、何故か幸村に目の前のあどけない少女を思い起こさせた。
彼女は何も知らないのだ。本能によって辛うじて自分がここに存在していて、その周りに他者なり世界なりがあることは知っていても、考えたことなど何もないのだ。卑弥呼の世界には、世界も自己も境界すら存在していなかったに違いない。
かつて卑弥呼が暮らしていた見もせぬ世界のことを幸村はそう考えたが、それは単なる想像ではなく確信に近かった。
「貴様、元の世界で一体何をしておったんじゃ」
政宗が卑弥呼にそう尋ねたのは、旅先での宿でのことである。政宗の言葉に溜息が混じったのは「まだ眠くならへんのに妲己ちゃん、寝てもうてん」と政宗の部屋に(勿論幸村と同室だ)彼女が飛び込んできたからに他ならない。
それは詰問というには随分軽い口調だったが、もしかしたら政宗はこの時をずっと待っていたのではないか、と幸村は思った。
即ち、妲己のいない場所で卑弥呼だけの言葉を引き出せる機会を。
「うち?前の世界のうちの役目のことか?」
卑弥呼は幸村の布団に潜り込みながらそう返す。時折彼女はこうして幸村に物語をねだる、このことは最早習慣になっていた。
それは少女のことを可愛いと思いつつも、いまいち接し方が分からぬ幸村が四苦八苦して何とか思い付いた卑弥呼のあやし方だったが、彼女はそれを甚く気に入ったらしい。
何か、お話してや。今ではそれが口癖のようになっている。
勿論はじめは卑弥呼が一番懐いている妲己にその矛先が向けられたのであるが、妲己が頭を抱えながら「幸村さん、パス!」と叫んだものだから、目を白黒させながらうろ覚えの御伽話を話すのは幸村の役目になってしまったのだ。
そういえば。幸村は卑弥呼のぬくもりの中で考える。はじめて卑弥呼に「お話」を聞かせた時、彼女はこう言ったのだ。
「じいちゃん?それって幸村のじいちゃんの話か?竹って何や?とってどうするんや?」
「いえ、私ではなく」
「そうじゃ、幸隆は武将じゃぞ。昌幸とそっくりの、な。罠を作る以外に竹なんか取るか」
政宗が要らぬ口を出し、ますます首を傾げる卑弥呼に「昔々の話で何処の誰ということではないのですよ」と言ったのだが、混乱させただけのようだった。
寝つきの良い、しかも物語などを読むことを端的に言えば好まなかった自分ですら知っている御伽噺という概念を、この少女は全く持っていない。しかし彼女は、干からびかけた草木が水を欲しがるかのように幸村に「お話」をせがむのだ。
ふと、花を摘む彼女を見て、その光景が書き割りのようだと戦慄したことを思い出す。
自分が水をやっているのは乾燥しかけた草木ではなく、疾うに立ち枯れたそれではないか、とぼんやり思ったのだ。
だから政宗がそんな質問をした時に幸村は思わず顔を顰めた。
未成熟。それは子供故の、ではなく。
未成熟な彼女が口にする「役目」という言葉には何処か底知れぬ響きがあった。三国という異国の乱世を生きていた武将達にも、幸村からすれば気の遠くなるような古代に暮らした妲己にも感じられぬ、奇妙なちぐはぐさ。
聞いてはいけない、そう思ってしまったのだ。
「役目?ほう、何だか偉そうじゃな」
「偉いんよ、だってうち、カミサマやっとったんやもん」
あっけらかんとそう告げる卑弥呼に、政宗が一瞬顔を強張らせたのが分かった。隣に眠る卑弥呼の腹のあたりをあやすように軽く叩いていた自分の腕も、気付けば止まっていた。
「は?神じゃと?貴様が?」
「うん、カミサマや。あんたがカミサマやーって言われたから、うちカミサマになったんや」
彼女が、自分達が生きた時代から遥か過去の日ノ本からやってきた事実は、一応幸村も承知していた。
だが卑弥呼などという神の名は聞いたことがない。それは自分の無学の所為ではないだろう。
政宗も明らかに二の句が告げぬ様子だったのだから。
「貴様がなれるくらいなら、儂とて神くらいなれるぞ」
驚愕を一瞬にして呑み込んで、そんなふざけた言葉を返した政宗は、普通に凄いと思った。自分達の反応を見て卑弥呼が何かを言い切れず隠してしまったら、元も子もない。幸村は強張った身体から力を抜く努力をする。
「政宗には、無理や」
卑弥呼は自信あり気に言い放つ。
「政宗には分からへんもん。戦に勝てるか、今年は何人人が死ぬか、あんたなんかに分からへんやろ?」
「戦に勝てるかどうか、分かるのか?」
今度は幸村の方を身体ごと振り返って、卑弥呼は頷く。でも、と、卑弥呼は縋るように幸村を見上げた。
「分からんようになってまった。本当はな、妲己ちゃんが戦う時、こっそりついてったことあったんや。どんだけ考えてもな、勝つか負けるか全然分からんようになってしもうて、それで」
「怖かったんだろう?」
「…負けるかと思ったんや」
卑弥呼の小さな肩越しに、政宗と目が合った。
何故この子は連れて来られたのだろうと思う。
確かに多少なりとも戦う力はあるが、強者を求めた遠呂智がわざわざ目をかけ連れてくるだろうか、こんな幼い娘を。
「でも、今までは本当に分かっててんで?」
政宗がまだ疑っていると思っているのだろう。少女は幸村の袷を小さな手で握り締めながら、政宗を振り返りつつ噛みつくようにそう言った。
「あと何人人が死ぬか、穀物はどのくらい出来るか、戦に勝つか、今日は何をすべき日なのか。妲己ちゃんと一緒にここに来るまでは、ちゃーんと、本当に、分かっててんで?」
うち、カミサマじゃのうなったのかなあ?と呟く卑弥呼に「大丈夫、私にもそんなこと分かりませんし、それは普通のことですよ」と返すのが、幸村には精一杯だった。
「あ奴を連れてきたのは貴様だったのだな、妲己」
かつての仇敵とは思えぬくらい妲己に友好的に振舞っていた政宗が、冷ややかな目で彼女を問い詰めたのは明くる朝、まだ陽も明け切らぬうちだった。
卑弥呼はまだ幸村の布団で寝ている。
早朝から叩き起こされた妲己は文句を言いかけたが、政宗の表情を見て黙りこくった。それは彼女に後ろ暗いことがあるという何よりの証拠に思えてならなかった。
遠呂智によってこの世界に放り出され、神に断罪されようとしている自分達も被害者かもしれぬが、卑弥呼が憐れで仕様がなかった。
妲己に詰め寄りこそしなかったが、幸村とて同じ気持ちだった。己の膝に収まって転寝する娘。拙い自分の御伽噺を首を傾げながら最後まで聞いてくれたというのに。共に過ごした時間は短いが、彼女に対する情は小さいものではなくなっている。
訳も分からぬ世界で己の存亡をかけて戦おうとしている生活、それをきちんと日常にしてくれたのは彼女の力が大きかったというのに。
「ええ、そうよ」
それが何?とでも言いたげな妲己の態度が政宗を逆撫でする。幸村はそっと拳を握り締めた。やはり信ずるに値しない人物であるかもしれぬのだ、妲己は。
この先彼女が語るであろう言い訳を一言も聞き漏らすまいと身構えた幸村は、妲己の握られた掌が震えているのを見た。
いつだったかの妲己の言葉が甦る。「信じられないかもしれないけど、私も笑いながら言ってたのよ、馬鹿って」幸村は息を呑み、出来るだけ静かな声音で呟いた。
「私はいつも政宗殿にこのような役どころをさせてしまいます。今、貴女に対しても」
遠呂智軍の冷酷な軍師には甘い一言だったかもしれなかったが、幸村には言わずには居られなかった。
一緒に生きたいと切望するほど誰かを愛したことがあるでしょう?妲己ちゃんと声を上げて駆け寄ってくる卑弥呼を抱き締めるのは、いつも妲己の仕事だったではないか。
「貴女はあの子に何をさせようとしているのですか?」
「…分かんない」
噛み締められた妲己の唇からその言葉が漏れ、政宗が拳を振り上げた瞬間、妲己は板の間に突っ伏して泣き出した。
それは幸村が思わず息を呑み、政宗が凍りつくほど、幼く悲痛な泣き声だった。
狂ったように全身を波打たせながら嗚咽を漏らす妲己の姿は、とても己を懐柔しようとする媚態を演じているようには思えなかった。分かんない、もう沢山なのよ、辛うじて聞きとれるのはその言葉だけで、妲己の嗚咽に紛れて政宗が何度目かの舌打ちを放った時、唐突に卑弥呼が入ってきた。
「妲己ちゃんをいじめたら許さへんで!」
卑弥呼の介入によって咄嗟に妲己が身を起こすかと思ったが、妲己は身を投げ出したままで動かなかった。
妲己の前に身を滑り込ませた卑弥呼は、両手を広げて政宗を睨む。
「苛めてなどおらんわ!いいから貴様は出ていけ!」
「出ていかへん!妲己ちゃんを苛める政宗は嫌いや!」
突然妲己が背後から絡め取るように卑弥呼を抱き締めた。卑弥呼は然して動じた風もなく、上半身だけを懸命に捻って妲己の頭を撫でる。
政宗は悪い奴やな、怖かったやろ?もう大丈夫やで。
「…何で儂だけこんな悪し様に言われるのじゃ…」
完全に勢いを削がれた政宗が幸村を茫然と見ながら呟く。それに混じって妲己のか細い謝罪が響いた。
「卑弥呼、ごめん…ごめんなさい」
「何で謝るん?謝るのは政宗の阿呆やで?」
うちが妲己ちゃんの分まで政宗をいてこましたるから。な?見当外れではあったが卑弥呼の必死の慰めも耳に届かぬかのように妲己は謝り続けた。
「なあ、ほんまに何で謝るんや?妲己ちゃん、うちのこと嫌いになったん?」
「そんな訳ないわ」
はじめて妲己が顔を上げる。普段の妲己の面影など欠片も残ってない涙に濡れた顔を小さな掌で包み込んだ卑弥呼は、朗らかに笑いながら言った。
「なら謝ることあらへんやん」
やはり卑弥呼は「カミサマ」とやらの役目を負った少女だったのだろう。
幸村の想像も付かぬ古代において、戦も人の死も、作物の実り、祭事、そういった全てを請け負って彼女は人々を率いていたのだと幸村は何故か確信する。
「うちは今、別に痛くも痒くもないで?だから謝ることなんか、あらへんやろ?」
人知を超える罰は余りに恐ろしくて、いつしか人はそればかりを語り継ぐようになってしまっただけなのかもしれない。
妲己の頬を両手で優しく挟みながら笑う卑弥呼を見て、幸村は断罪だけが神の仕事ではないのではないかと唐突に思う。
「あの…」
聞き慣れぬ声にぎょっとしながら振り向くと、困惑した男が一人立っていた。宿の主人だ。
「そろそろ朝餉を運ばせて頂きたいんですが」
妲己は洟をすすりながら、卑弥呼はまだ政宗を睨みつけたまま、幸村は少しだけ困惑した顔で、政宗はぶすっとしたまま、けど誰も、米粒一つ残さず飯を平らげたのが、何だかおかしかった。
「遠呂智様がいれば何とかなるって思ってたのよ」
赤い目のまま妲己はそう言ったが、幸村も政宗もちらと視線をやっただけで何も答えなかった。
意味は分からなかったが聞き捨てならぬ筈のそれを無視したのは、彼女の言葉が過去に向かっているものであると直観したからかもしれなかった。
もしかしたら政宗辺りは魏書を読んでいたかもしれないんですけど(どのくらい普及してるかなんて知らんぜよ)
邪馬台国研究が新井白石辺りから始まっているものとみなして、政宗達は知らない、ということにしておきました。
一人だけ別の時代から来た卑弥呼は重要人物かもしれませんが、出来ることなら蚊帳の外でのんびり楽しく過ごして欲しいです。
と、ここまで書いて気付きましたが、案外そんな子供でもないかもしれんね。
…だが私の頭の中ではすっかりこどもなのだよ!すまない!
(11/01/21)