十八、

 

 

「あの時あの方の言葉に頷けば、私は消されていたのでしょう」
 
少しずつ混乱が収まった中で、市は気丈にもそう言って、やっと、という風情で息を漏らした。その言葉を継いだのは長政だ。
 
「某はずっと疑問に思っていた。城下の民や下働きの者が少しずつ減っている気がすることに」
「そうか?俺は全然気付かなかったけどな」
 
口調はあくまで普段通りだったが、声音にはまだ緊張を含んだままの甘寧が首を傾げる。
 
「詳しく窺っても良いか、浅井殿」
「そんな噂を聞いたのは偶然であったと思う」
 
何処かに移り住んだ形跡も、勿論死んだという話も聞かなかった。それは僅かな変化であったが、何処となくその話が頭に引っ掛かったのは確かなことだった。
無論、長政とて無能ではない。噂の出所は突き詰めてみれば案外多く、長政は正確な戸籍の作成と、彼らの話を聞くことに時間を割いた。つもりだった。
 
「しかし…彼らの話は日々変化していった。昨日まで息子がいなくなったと大騒ぎしていた者が、次の日はちっとも取り乱さないのだ。此方から尋ねると、そういえば、という曖昧な返事が返ってくる。それから何日かして尋ねると、彼らは一様に首を傾げるのだ、そんな者がいたか、とでも言いたげな顔だった」
「作られたという戸籍はその後どうした?」
 
長政は黙り込んだ。政宗は頷く。
 
「儂は以前、この世界に来てからの政務の記録全てに目を通そうとしたことがある。じゃが読めなかった。いや、理解出来なかったと言った方が良いか」
「某も、そうなのです。あたかも」
 
夢の中の感覚のようだったのではないか?
政宗が言う。
全てが、ではない。現に浅井殿は儂の書状の内容を覚えており、出迎えまでなされた。儂もこうして会えたことを忘れることはないであろう。
 
「しかし、現実感は薄れるやもしれぬ。儂の記憶は混濁し、重大なことも些細なことも、数日後には意味をなさない断片しか残らぬかも、ということじゃ」
「だからあの方は、夢だと仰ったのですね」
 
そうして終わらせてくれと願った者が消されたのだ。
 
「本当に、んなことあるのかよ…」
「だが某の市は消えなかった!」
 
長政が叫んだ、一見希望のような見解は、希望にはならなかった。
どうしようもなくなったら願えと彼女は告げたのだ。
あの時は闇雲に頷いただけだった。恐らく彼女は、どうしようもなくなったら死を願えと。その時は再び現れると言ったのだ。
 
「分からぬ。もしも妲己の言う通り、女カとやらの目的が儂らを消すことにあるのであれば、効率が悪過ぎる。皆が皆、素直に頷く者とは限らぬからな」
「望んだから消してあげますってこと?そんな甘い女じゃないわよ、女カは」
 
ふいに幸村は思う。誰だって思うことではないか、現実をなかったことにしてくれと。どうしようもない時であれば、それこそ命を賭けても、そう願って。
 
「最期まで生にしがみつくが人の在り方だと儂は思うておる。それでも絶望を殺すことなど出来ぬ」
 
そうだ、その絶望に支配されかかった時に人は願う。死をもって現実を消すこと。しかし。
 
「絶望によって生み出される感情的な祈りで再び女カが現れたら?二度目はないやもしれぬぞ」
 
その絶望の淵を見ればこそ這い上がることだって出来るのに、その可能性を狭められてしまったら。
 
「つまり、私はもう戯れに死を願うことは許されぬ、ということですね」
「奥方殿だけではないかもしれんがな」
「…あ、あのさ、俺みたいに馬鹿になっちまえば良いんだって!俺死にたいなんて思ったことねえし!」
 
取り繕うような甘寧の声の中、政宗が俄かに頭を下げた。幸村も思わず手をつく。
 
「すまぬ」
 
市と、何故か慌てる甘寧の制止を振り切って政宗は尚も首を垂れる。
 
「恐らく儂は後悔どころか、奥方殿を追い詰めることを申したであろう。もう儂には、これから先奥方殿が絶望を味わわぬよう、浅井殿を頼られ心安く居られることを祈ることしか出来ぬ」
「良いのです」
 
顔を上げた政宗が見たものは、笑みを湛える市の姿だった。
 
「随分優しいことを仰ると申し上げましたでしょう?貴方にとってはささやかな躊躇だったかもしれませんが、私はそれを覚えていられるでしょう。それが仮令夢のような感覚しか残さぬとしても、私は」
 
だって、覚えているのだから、私は。
勝家の掌の感触を。振り返って仰ぎ見た城門と馬の鬣がぱらぱらと風に舞って、
 
「私は」
 
必死で引き返し、荒野の真ん中で叫んだこと、貴方の幸せを願うと、
 
「…私は」
「市?どうしたのだ、市?」
「私は覚えているのです!何故?女カという方に会った記憶もおぼろげなのに、昨日のことのように。それは限りない現実感を持って」
「ちゃんと、話してくれるか、市」
「…はい、長政様」
 
勝家が――そう切り出した市の顔を、政宗と幸村はまじまじと見詰めた。直接は知らないが、絶世の美女と謳われた信長の妹の生涯は聞き齧っている。
そんな二人に静かに首を振ると、市は続けた。
それは私と勝家が迎えた二人の最後の日のことです。長政は静かに、市を見詰めながら聞いていた。市は時折長政に微笑み返しながら淡々と述べる。長政の知らぬ、かつての世界で、後に添い遂げた夫との出来事。
 
「実に私的な話で失礼致しました。しかし、私は長政様と勝家とのことを思い出さなければ、あそこで首を縦に振っていたことでしょう」
 
誰も何も言えなかった。その記憶だけが鮮明なのは何故かと考えることさえおこがましい気がして皆が目を伏せた中、市に語りかけたのは長政だった。良かった、長政はそう呟く。
その声は静かだったが、純粋な喜びに満ちていた。こんなにも正しい安堵の言葉など他にない、そんな表現がしっくりくる程に。
 
「市は、幸せだったのだな」
「ええ、長政様」
 
穏やかな笑みを交わす浅井夫妻の傍で、甘寧が乱暴に腕で顔を覆う。
 
「お前ら、馬鹿じゃねえか…」
 
それにはやはり笑みだけを返し――そういえば、長政はいつもこんな風に笑っている、と政宗は思う。初めて自分を迎えた時にも、先程の話の間は混乱し取り乱すこともあったが、それさえ終われば彼の表情はきちんと元に戻るのだ。
信長の妹の末路を承知しているように、政宗も近江の若鷹と呼ばれた大名の行く末を知っていた。正直、何と愚かな男であろうと考えてさえいた。信義に雁字搦めになり、朝倉を捨てきれなかった男、義兄に攻められ愛した妻を手離してまで。
彼はきっと苦悶の表情を浮かべていたのだろうが、そこには憎悪など欠片も含まれていなかったのではないか、と政宗は思う。
 
あの時代には貫くことを決して許されなかった長政の誇り。しかしそれは、こんな世界においては、こうもあっさり、強さに形を変えることが出来るのだ。
悪くない、と思う。
この世界も、決して悪いものではない。
もしも自分が幸村を手離してしまった後で、幸村をそっと包む誰かの手があったら。どうしようもない自分はきっとその手に感謝と誇りを捧げるのだろう。勿論幾許かの独占欲と寂寞を押し殺しながら。
その時に自分もこんな顔が出来たら良いと思う。最後の最後まで手を繋ぎ続け、自分なりの最善の判断でその手を離した後に浮かべられる、諦観など何一つ含まれない、しかしそれに似た穏やかな笑み、長政の顔は、そんな顔だ。
 
「某も、市と共に祈ろう。柴田殿の幸福を。柴田殿はそれを許してくれるだろうか?」
「まあ、長政様」
 
市は笑う、呑気な童女のように。
 
「きっと勝家はずっと前から長政様のことを祈っておりましたよ」
「そうであったか、それではその分も某は心よりの感謝を捧げねば」
 
生真面目に決意を露わにする長政に、市はころころと笑い続ける。愛する夫の知らぬ、もう一人の大好きだった夫の懐の深さを慈しむように。

 

 

たった一人の為に一途さ(他の人に見向きもしない的な意味で)を貫くのも良いですが、愛すべき人を愛せるお市様は、潔くて格好良いと思うのです。
そして長政様と叔父貴は、それに見合うくらい器も懐も深い人だと信じてます。
(11/02/09)