十九、
「さて、私の知っていることは全てお話し致しました」
市はそう言って、慌てて礼を取る政宗達を尻目にさっさと立ち上がった。
先程まで縋るように自分の肩に顔を寄せていた妲己の腕を取りながら。
「え?ちょっと何?お市さん」
「私達は席を外させて頂きますね。もしも何か伺いたいことがあれば遠慮なくお呼びください」
妲己殿と一緒であれば問題なかろう、と笑顔で送り出す長政に振り返った市は、「問題ありまくりだろ、二人で何処に行くってんだ」と呟いた甘寧に言った。
「ちょっと、私達も女の子同士の話を」
「女の子じゃと…妲己はどう考えても女の子なんて可愛らしいもんではないじゃろう」
妲己は引き摺られるまま何も言えず、だが通りすがりに政宗の足を踏みつけて去って行った。
「片目のあんた、すげえな。俺思ってもさすがに言えなかったぜ」
「片目のあんたではない!名くらい覚えよ!儂は独眼竜じゃ!」
「それは名前ではありませんよ、政宗殿」
「そうですよ、伊達殿。それに妲己殿はなかなか可愛らしいところもおありだと思う。某の市には敵わぬが」
遠呂智世界の謎を握る最重要人物であるところの妲己は、この話し合いの最中殆ど口を利かなかった。
時折締め切られた襖にちらりと目を遣っていたから、別室で既に休んでいる卑弥呼のことを気遣っているのかと思ったが、彼女のいる所は安全な浅井の居城の一室である。不自然な妲己の様子を気遣って市は、この場から彼女を連れ出したのであろうが、それよりも目の前の長政にきらきらした瞳でそんなことを言われ、政宗は一瞬怯んだ。
「幸村…儂、浅井殿には勝てぬ気がしてきたのじゃが」
「勝たなくても良いんです」
ぴしゃりと跳ねのける幸村は、容赦ない。妲己に思い切り踏まれた足を擦りながら政宗は幸村に近寄ったのだが、全く同じところを叩かれて政宗はすっ転んだ。
「そんなことよりも」
「良いのかよ…あんたの殿、転がってるぜ?」
「厳密には私の殿ではありませんし、いつものことなのでお気遣いなく。それより先程のお話ですが」
転がったままの政宗が顔を上げる。
「記憶の混濁、或いは混乱。それは遠呂智の存在と本当に関係がありますか?」
過去の記憶が薄れていくのは当然のこととしても、この世界に飛ばされてからの流れは思い出せる。それが仮令夢の中のように取りとめのないものだとしても。
その一方で妙に鮮明な幾つかの事柄。初めて見た光景、三国の英雄と呼ばれる過去の人が目の前に存在していて、それで自分は何かとんでもないことが起こっているのだと知った。
蜀に身を寄せ戦った日々、その全ては確かに頭の中にある。それが今から何日前の出来事かを正確に数えようとすれば脳は混乱をきたし、頭の何処かが拒否反応を起こす。
「妙なことの一つは、明らかに時の流れがおかしいこと。これは先程も政宗殿がお話してくださいましたが」
「一つ、と申されたか?もう一つは何かお聞かせ願えぬか」
「あくまで私の推測です。御方様のお話をうかがって私が勝手に考えたことですが」
混乱する記憶の中で、それでも普通の現実感を持って今尚鮮明に思い出せる幾つかの些細な事象。幸村は小さく息を吸い込んで一気に言った。
「もしも御方様と柴田殿との遣り取りが城内で行われておいででしたら、御方様はそのことを覚えておいででしたでしょうか?」
それは一つの可能性に過ぎない。
しかしこの世界に飛ばされてすぐのことを自分はよく覚えている。
身を寄せる場所など何処にもないような荒野で呆然と立ち尽くす隣に兄がいた。勿論細かい遣り取りまでは正確に覚えていないが、それは通常の忘却の範疇で、兄と交わした言葉は覚えている。
遠呂智が現れて、いつしか蜀の客分となり、各地を転戦したこと。街亭で政宗が蜀に降った時、自分達は陣屋を借りてなどいなかった。街亭の外れの荒野の中に粗末な陣を建て、そこでこの世界に来てから初めて政宗と話をした。
遠呂智が破れて後、政宗と行動を共にするようになってからはもっと簡単だ。
城内での出来事は薄い幕越しに見る景色のように、それこそ政務の内容も昨日の夕餉すら思い出せないことが多いのに、天候と変わらぬ水量が気になって城下を流れる川を遡り、やがて町を外れて荒野に出た時の風景を自分は妙に鮮明に思い出せる。滔々と流れる川は、荒野の真ん中で切れていた。それは泉でも湧き水でもない、川のはじまりだった。
「今でも、水音すら思い出せます。川の始まり、というには余りにも水量は多く、川幅はしっかりしたもので、それは現実味を欠いた光景でしたけど、私の記憶の中では確かに現実のことだったと」
或いは戦のこと。古志城での戦は何もかもをきちんと思い出せるのに、成都で趙雲と槍を交えた出来事は、まるで悪い夢の中のようなのだ。
「私は成都に行く前に、袁紹殿にお会いしています。袁紹殿は大軍を引き連れておられたが非常に混乱なさっていた。細部まで正確とは申せませんが、よく覚えております」
「よりにもよって最初に会ったのが袁紹かよ…そりゃ災難だったな」
ええ、まあ、と幸村は苦笑した。
「それでその袁紹と成都を攻めたのか?何故じゃ?」
幸村は少しの間、押し黙った。笑わないでくださいね、と念を押す。
「…亡者の群れがいると言われたのです」
「は?亡者?何じゃそれ」
「袁紹殿の陣に斥候が駆け込んできて、成都が亡者の手に落ちたと聞かされたのです」
「それで、それをまんまと信じて成都を守っておった蜀の将を攻めたのじゃな?どう考えてもおかしいじゃろうが」
「ですから笑わないでくれと」
「ではのうて」
政宗は身体ごと幸村に向き直った。笑うのは後からじゃ、と随分優しげな、幸村を励ますように。
「お主らの陣は何処にあった?」
「もともと成都へは城を落とすつもりではなく身を寄せるつもりで向かっておりましたので、成都の城の外れに」
「荒野と成都の間に純然たる境があったかどうかは知らん。じゃがそこは明らかに荒野ではなく、成都と呼ばれる場所だったのじゃな?」
幸村は黙って頷く。
「斥候はどんな奴だった?」
「…覚えておりません、政宗殿、私は当たり前ですがこれまで亡者などをこの目で見たことはありませんでした」
「それは普通そうじゃろうが」
「なのに何故私は自分の目で確かめようとしなかったのでしょうか。私だけではなく、兄も」
忍は己が目の如し、と父はよく言っておりました。しかしそれを伝えたのは、馴染み深い自分の忍ではなかったような気がするのに。
「何故私も兄も、あんなに簡単に信じたのでしょうか?政宗殿」
私達が一定の条件下で失いつつあるのは、記憶だけではなくて、
「感覚と、判断力だったとしたら?時のおかしな歪みが記憶を曖昧にし、感覚がそれを後押ししているのだとしたら?」
これまで私が思い出そうとした幾つかのことを纏めてみると、そんな風に思えてならないのです。
そう言ってうなだれる幸村の震える肩を掴み、政宗は振り返った。
「おい、甘寧。貴様の覚えていることを何でもいいから話せ!」
「…何でもって言ったって…俺馬鹿だから昔のことは忘れちまうんだよな」
「貴様に聞いた儂が馬鹿じゃった!では浅井殿は」
「ええと、某は」
「待てよ!嘘だって!場を和ませようとしただけじゃねえか」
「そんな気遣いなど要るか!」
甘寧が、がしがし頭を掻きながらぽつぽつと話すことに、長政が相槌を打つ。
僅かな手勢だけで荒野を右往左往していたこと。長政に会って一緒に連れて行ってくれと頼み込んだ。
「悪い奴じゃないって思ったからな」
「それは光栄だな」
荒野を彷徨って辿りついたのは、陳倉と呼ばれた場所だった。元々は陳倉に住んでいた者達だったのだろう、民はいたが、城主の姿は欠片も見えなかった。まるで火事場泥棒のようで気がひけたが、長政は事態が落ち着くまでそこを拠点にすることを決めたのだ。
「陳倉の城を見つけた時には嬉しかったよなあ。呉じゃねえんだって多少がっかりはしたけどよ」
「そうだな、甘寧殿は暫くの間そのことばかりを申されていた」
長政達の入城は、然したる混乱もなく民に受け入れられた。
「だが、こうやって話してみると…おかしいな」
長政がふいに言葉を濁す。
「拠点にすることを決めた、だとか、混乱なく某を受け入れてくれた、だとか」
本当にそうだったのかと強く問われたら頷くことが出来ない。むしろ、今そのように自分が口にしたからこそ、そんな事実が生まれたような気がする。
古志城、と政宗はあのおどろおどろしい城をふと思い出す。
この世の中がおかしいと自分が気付けたのは、古志城にいた時とは感覚が微妙に違っていたような気がしたからだ。だからてっきり、これは遠呂智か、或いはそれに連なる世界が自分達を惑わせているのかと思っていた。少なくとも遠呂智の死と関係があると。
「甘寧、貴様のいた元の世界に古志城と呼ばれる場所はあったか?」
甘寧は、今は一本だけになった鵞鳥の羽飾りを揺らしながら頭を回した。
「いや、ねえな。俺は孫呉の人間だからよ、北の方には詳しくねえ。西の果てや南の地の全てを知っている訳でもねえけどよ、遠呂智が根城にした城なんだろ?」
「ああ、大きい。城というよりは宮殿のような場所じゃが、大坂城――いや、儂は直接見た訳ではないが孫呉の本城より規模は大きいと思う」
「だったら知らねえ筈はねえよ。俺のいた世界にはそんなものなかった」
「なればあの城は、遠呂智の世界の唯一の建造物だったんじゃ」
あの城に身を寄せていた事実を、政宗はきちんと覚えている。それは今のような感覚ではなく。
勿論世界は混沌に満ちていたが、その中にいた自分は確固たるものだった、感覚も何もかも、全てが。
「あの城は、遠呂智が作ったものであると?某のいた世界や甘寧殿の時代から切り取られたものではなくて」
「どちらかといえば甘寧のおった世界の建築のようじゃったが。それも妲己が手を入れたと考えれば納得はいく」
それは最早可能性ではなく確信だった。
あの城は、確かに遠呂智が作り上げたものだったのだろう。この世界で自分達が正常でいられるのは――確固たる感覚を持つことが正常と言えるのであれば、だ――古志城とあの荒野だけ。
遠呂智によって生み出されたそのままの空間にいる時のみではないか。
「儂は大変な思い違いをしておったのかもしれぬ」
幸村が微かに身じろいだ。
「遠呂智の世界は唯そこにあっただけ。真に儂らに牙を剥いたのは、成都や陳倉、遠呂智亡き後儂らが身を寄せた城や町や村々や」
瞬きもせず此方を見る長政に不敵な笑みを送ると、政宗は幸村を正面から見据えて言った。
「つまり、真の敵は、かつての世界の残骸じゃ」
「女カも…この遠呂智の世界では、かつての世界の残骸、って奴だぜ」
甘寧の言葉に、政宗は一つだけ頷く。
地面というのは、便宜上の境すらあれ、連続し繋がっている筈なのですが(海とかだって一応繋がってるし)
繋がってないというのは、本能的に、さぞ恐ろしかろうと。
子供に見えてる世界とか。
小さい頃は目を瞑るのが怖かったですよね、眠るにしても何にしても。
それは暗闇が死や何やらを連想させるということも多分にあったと思うのですけど、
何よりも、自分が見張っていない世界は、自分に誠実であり続けるのか分からない、という不安があったんじゃないかと思います。
薄目を開けて、「自分が見てない時の世界」を何とか見ようとした子供は結構多いんじゃないかと思うのです。
そのうちに、世界にはそれなりの継続性と連続性があり、
何の理由もなく人やモノが消えてしまわないのと同じように、世界も消えたり変質することはない、と確信する(或いは経験に裏打ちされることで、奇妙に思わなくなる)ことになるのですが、
遠呂智世界はそういった確信が通用しない世界かもしれない、ってことです。
…多分www
(11/03/05)