二十、

 

 

かつての仇敵と二人きりになったのだ、真意は分からぬが気まずいだろうと妲己は隣の市を盗み見たが、城壁の上で気持ち良さそうに風を受けている市は然程でもなさそうだった。
 
「ここからの景色は好きなのです。私がいた前の世界には、こんな城壁なんてなかったから」
 
世間話?世間話の為に私を連れ出したの?妲己は思う。ああ、あんな城壁のぎりぎりのところになんか立って。私が後ろから突き落とすかもしれないとか考えないのかしら?
勿論そんなつもりはない。あの場から連れ出してくれたこの娘には感謝しているくらいだ。
あの場にいたら口走ってしまいそうだった。遠呂智様がいなくなったから、おかしくなっちゃったんじゃない?だったらやっぱり。
 
それは妲己にしてみても、唯の推測ではあったが、少なくとも遠呂智が倒れて以降暫くの間、妲己はかなり本気でそう考えていた。なにしろ遠呂智はこの世界の創造主だったのだ。
感覚は泡のようで、咲き誇る花は枯れようとしない。
遠呂智様がいた頃はそんなことなかったのに――ただ、彼がいた頃は世界に花なんかなかったから正確なことは分からないけど。
 
「死んだ人を背負うのは一人が限界だと思う?」
「長政様のことですか?」
 
てっきり顔をこわばらせるかと思った娘は、柔らかにそう答える。誰、とかじゃなくて。
 
「遠呂智のことではなくて?」
「まあ、そうね」
「では…貴女の夫君のことでしょうか?」
 
声を失った妲己に、知っています、と市は続けた。知っています、私だけではなくて。貴女は有名人ですもの。
日ノ本の誰しもが知っているであろう凄絶な人生を歩んだ彼女は、さらりとそう言った。
 
「お辛かったでしょう、と言って欲しいですか?それともしっかりしろと叱って欲しいですか?」
 
一瞬その言い方に腹を立てかけたが、案外彼女が言っていることは正しい気がして妲己は小さく息を漏らす。
同情も叱咤も、今は鬱陶しいと感じてしまうのだろう。
 
「…ごめんなさい」
「あんたが謝ること、ないわよ」
 
全く同じことを言って頬に触れた卑弥呼の小さな掌を思う。
私が守りたかったのは自分の心なのか、それとも世界なのか。ちっとも分からない。選択肢は増え続け、増え続けた選択肢はもう勘で正解選ぶことも、消去法で消し去ることも許してなどくれない。
 
「この小さな石と」
 
市はそう言って足元の小石を拾い上げた。白くて美しい指先についた砂を妲己はぼんやりと見詰める。
 
「この大きな石は、砕いたらきっと同じです」
「それってどういう意味?何か凄い深い示唆とかあるの?」
「…意味はありません。何となく言っただけ」
「怒るわよ!」
 
半ばふざけて手を振り上げたら、城全体を舐めるように荒野から強い風が吹いた。撒き上がった砂に思わず目を瞑ると、市の笑い声が妙に近くに聞こえる。
次に目を開けた時、市は城壁の淵に座り込んでいた。足を虚空に投げ出して。
 
「でも砕いてみなかったら何が詰まっているのか分かりません」
「私、遠呂智様を復活させようと思っていたの」
 
市の背中に向かって、そう言う。
 
「方法は知ってたわ。特殊な条件下の、強い力を持つ者を連れてくれば良いだけだったもの。でもその前に実は私も試したの。出来なかったけど」
「そう」
「私、まだ人間なのかしらって」
 
落胆もしたし歓喜も覚えた。
 
「貴女は人ではないの?」
 
市が驚いた顔で振り返る。聡明な彼女がそうする様は酷く無邪気で、妲己にはそれが面白かった。
 
「分からないわ」
「そう」
 
恐る恐る城壁に近付き、市に倣って隣に座り込む。はしたないですけど足をぶらぶらさせると気持ち良いですよ、と市は言ったが、それはさすがに遠慮した。
いい眺めだとは思うけど――その視界に映るものが一面の荒れ果てた大地だったとしても――高いところは少し、怖い。
知ってるでしょう?と言いかけた。今日初めて話したばかりの娘に。
でも確かにこんな光景はあった気がする。
それはまだ城壁の上が妲己にとっては雲の上の世界だった頃のこと。あの頃は忙しかった。何かに追われた忙しさではなくて、畑も見回らなければいけなかったし、水を汲みに行かなきゃいけなかった。友達と話もしなきゃ、私本当は高いところが怖いのよ、って伝えなきゃって思った。
私、今度お城にお嫁に行くんだって、って。いつも見上げてたあの城壁よりずっと向こうに。もう会えないねって一緒に泣いたあの子は幸せになったのだろうか。
 
「私、やっぱり遠呂智様を甦らせるのは止めようと思ったの」
「いいの?」
「もうたくさんだって思っちゃったから。でもそしたら、私は遠呂智様を見捨てた女になっちゃうのよね」
 
成功しても復活の為の媒体がどうなるのか、妲己には分からない。
それは成功なの?そうして、もしもまた遠呂智様が倒されたら?
私の望んだ成功は何だったのだろう。自分はかつて確かに思っていた筈だった。誰かと別れるなんてもうたくさんなの。それが死でも、死じゃなくても。
 
「魔王すら見捨てた悪女。良いじゃない、上等よ」
「傾城の美女ですからね。称号など勝手なものです」
 
城も国も傾けようと思って傾けた訳じゃないのにね、と妲己は言いかけて黙った。
目の前の娘も似たような名を背負っているのだろう。真実はどうであれ、市がやったことは浅井家そのものからすれば裏切りだ。
 
「でも、二人分を背負うのはちょっと辛いわよね」
 
妲己はさっき市が捨てた小石を拾う。砕いてみないと分からない色々なこと。
でもきっと小石と違って自分のことは砕けないだろうし砕ける時には自分も死んじゃうだろうから、誰にも分からない色々なこと、であるべきなのだ、それは。
薄暗い部屋で遠呂智の復活を見よう見真似で祈ることと、訳も分からぬ戦場に行った夫の無事を祈ること。それは兄に小豆袋を送った時の気持ちと良く似ていたのだろうと思った。
 
「一人でも辛いですから」
 
市はまるで凝った肩を解すように腕を小さく回す。でもねえ、妲己は少しだけ遠い目をした。優男だと思ってたけど。
 
「お市さんの旦那さん、結構格好良いじゃない」
 
市が腕を止めて此方を見た。その口が開き掛けたのを妲己は慌てて制止する。
 
「待って!惚気は止めてよね。私もうお腹いっぱいなんだから!」
「格好良いって言ってくださいましたのに」
「そうじゃなくて!ここに来るまでも大変だったんだから!中てられっぱなしで苛々するのよ、本当に」
「ここに来るまで?」
「…政宗さんと幸村さん」
 
市は暫く凍りついて、顔が徐々に歪んだかと思ったら、その後盛大に噴き出した。
 
「あんなに…あんなに偉そうだったのに…」
「その言い方もどうかと思うけど、否定はしないわ。偉そうなのに幸村さんに尻に敷かれまくりよ」
 
妲己に背を向けて笑い転げていた市が、勢い良く振り返る。笑い過ぎたらしく目は微妙に潤んでいた。笑うのは良いけど落ちないでよ、と妲己は少しばかりはらはらする。
そんな心配を余所に再び弾かれたように笑い出した市は、いっそ苦しそうだ。
 
「ちょ、あんた笑い過ぎじゃない?大丈夫?」
「だって…貴女が面白いことばっかり…あの独眼竜が頭が上がらないって」
「そうね、愛って奴よ、愛」
「もうやめて、本当に…苦し…」
 
そうだ、尻に敷かれてるじゃなくて、頭が上がらないと言えば良かったのだ。さっすが生まれついての深窓のお姫様は尻なんて言わないのね、と妲己は非常にどうでも良いことを後悔する。
その他愛ない真剣な後悔は、何故だか不思議に心地良かった。
深窓のお姫様だろうが何だろうが、女の子の噂話は結構酷くて、甚く楽しい、そういうことだ。
 
「こうやって座れば良いのに」
 
どうにか笑いを収めた市は、そう言ってぶらぶらと足を振る。
 
「…高いところ怖いって言わなかったかしら?」
「はじめて聞いたわ」
 
市は、多分長政も勝家も知らないであろう口調で、そう言った。
もう会えないねって一緒に泣いたあの子は、多分幸せになったのだろうと妲己はぼんやり思った。

 

 

何も解決してないけど、何となくどうでも良くなった(いい意味で)みたいな気持ちって
妲己ちゃんやお市様に必要なんじゃないかなと思ったまでです。
(11/03/08)