二十一、

 

 

自分の為に用意された部屋の扉を開けた伏犠は、女カの姿を認めて一応盛大に驚いて見せた。
 
それで彼女の苛々が少しでも収まれば良いと思ったのだが、そうは言っても伏犠は、全知で全能らしい神なのだ。扉を開けずとも女カがいることなど分かっていたし、彼女がそんなことで怒りを収めることがないことも分かり切っている。
肝心なことが分からなくても――例えば何処の誰が、神という存在を全知全能であると決めたのかについては分からないが――そういうことはしっかり分かるのだ。
 
「伊達が妲己を抱きこんで蜀に向かっている」
 
ほう、そうか。そう返したのは失敗だった。ここでもっと大袈裟に驚くべきだったのかもしれない。
 
「伏犠、貴様、知っていたのではないか?」
 
そうだ、彼らは核心を得ようとしている。
 
そうは答えられないから、伏犠は得意の薄笑いを浮かべる。得意と言ってもそれはあくまで自称・得意技であって、女カに通用した覚えなど、ここ数百年の出来事の中ではとんと思い付かない。
仕様がないので嘆息しがてら、こう付け加えた。
 
「卑弥呼も、居るぞ」
「知っている!」
 
女カは腹立たしげに机を叩く。密談ならもっと静かにやって欲しいものだと伏犠は今度こそ本気の溜息を吐いた。勿論誰かに聞かれている気配などないが。
伏犠がそう感じれば、それは正しいことなのだ。
 
「大体日ノ本の連中は貴様の管轄であった筈だ。何故伊達を泳がせておいた?」
「管轄なぞ、そんな厳密に決めてあった訳ではなかろう。偶々儂が信玄を抱き込み信長辺りと接触させただけのことで」
「言い訳をするな」
「そもそも政宗も幸村も蜀に居った筈じゃ。ならばあの坊主が何とかすれば良い話じゃろうが」
「蜀は今混乱している」
 
ほう、と伏犠は片眉を上げた。無論、女カに言われずともそんな事実は把握している。
劉備を中心に、感情的に実によく纏まった者達が混乱していると言うのであれば、伊達を蜀に近付けたくないと女カが騒ぐのも道理だろうと思ったまでだ。
女カは、恐れている。
 
「大体この策を考えたのは貴様だぞ、伏犠。遠呂智によってばらばらに纏まり出した勢力を一旦解し、従来の繋がりに直しつつ囲い込み」
「囲い込み、ではなくて、保護じゃ」
「かつての世界の残骸である城や町に封じ込め」
「避難」
 
人聞き悪いのう、と伏犠はぼやいたが、女カには完全に無視された。
 
「元の世界と似たような状況に置き、緩やかに矛盾を感じさせ、この世界を捨てさせる。そう言ったのは貴様だ」
 
本当は、伊達の動きを全て知っていたのだろう?と詰め寄る女カは、甘いと伏犠は思う。
 
「政宗が脅威となると感じるのであれば、お主が消せば良い。それだけの力はこの世界でも発揮出来る筈じゃが?」
「…貴様っ!」
「そもそも何故お主はわざわざ人の子に伺いを立てる?神の断罪に絶望し泣き叫びながら命乞いをする人の子らを問答無用で殺すのは嫌か?」
「殺している訳ではない、私は!」
「同じことじゃよ」
 
そう、同じではないか。囲い込むことと保護が同義であるならば、消すことも殺すことも同じことではないか。
やはり女カは甘いと思うのだ。
 
「分かっているのか…?」
 
そう言って怒りに肩を震わせる彼女が最も恐れているものは、伊達の動きでも蜀の混乱でもない。ましてや己が手を汚すことでも。
 
「奴らの動きによっては、戦が始まるぞ。最悪、我々自らが剣を取って奴らを殺すことになるのだ」
 
自分が刃を向けること、人の子らに。
 
彼女を見ていると時折恐ろしくなる。この世界に絶望するのであれば全てを夢にしてやろう、お前を消してやろうと囁く彼女の両手は常に空いている。もしも混乱した人の子が斬りかかって来でもしたらどうするのだろう。
無論人の子になど遅れは取るまいが、彼女は無抵抗のまま死んでいくつもりなのではないかと伏犠はぞっとする。
 
「万一我らが殺されでもしたらどうなる?彼らはこの世界の中で生き続けねばならぬのだぞ?お前も覚えているだろう」
 
女カの記憶の中に残るのは、あの、何もない世界。ささやかな実り以外は奪われるだけの世界。
原初の社会の中で、自分の命は削ぎ落され奪い取られるだけのものだった気がする。詮無きこと?いや、違う。詮無きことだと己を抑え込むことしか能がない者が、どんな思いでその言葉を吐き、事態を呪うか、考えたことがあるか?
 
「のう、女カ。何故遠呂智はこの世界に時を作らなかったのじゃろうか」
「作れなかったのだろう?遠呂智が作れたのはこの荒れ果てた大地だけだ」
「作れなかったか、作らなかったかは知らんがな」
 
伏犠は女カに口を寄せて囁く。
 
「あの災厄の後、儂らの時は本当に流れておったのじゃろうか?儂にも分からん。だが女カ、お主には本当は何か分かっておるのではないか?」
 
女カはそれには答えなかった。兎に角、戦だ。そう呟いただけだ。
 
「まだ戦にはならん。神に刃向うにはそれなりの準備と覚悟がいる。そういうことじゃ」
「…何故、人の子は」
 
刃向うのだ、と女カが続けた気がした。勝ち目などないものを。
神が破れる理由など古来より決まっている。世界を覆っている理そのものがひっくり返させられるか、神が己の意思によって退くことを決めた時だけだ。
 
「見たいのじゃろう」
 
そんな願いなど、自分は疾うに失ってしまったが。
 
「親を殺し、神を殺した果ての地平を見、そこに立ってみたいのじゃろう」
 
それは血腥い栄光か、言い知れぬ後悔漂う世界なのか、伏犠には想像さえ付かない。ああ、しかし。
 
「これからはきちんと武器を持て。その切っ先を付きつけろとは言わぬがな、万一の為にそのくらいの備えがあっても損はせんぞ」
「忠告感謝しよう」
 
女カはそう言って虚空に消えた。

 

 

頑張れ、女カ母さん。
(11/03/10)