二十二、
印も何もない、便宜上の国境を越えた。
不思議なものでこんな世界の中でも人は境を作りたがる。左足は誰のものでもない荒野だったのだが、一歩踏み出した右足の居場所は、蜀が所有し管理している荒野になるのだ。
不思議だ、ともう一度幸村は思う。
蜀の地に入ったものの、勿論まだ成都は見えない。
陳倉を発って数日、歩き通しだった。
あの話以降、政宗は点在する集落で宿を取ることを止めた。餞別代りに甘寧が呉れた三国の陣幕は役に立った。
広大な大陸で転戦するには、一瞬にして壁と屋根になる布は大層役立ったのだろう。
長政達との話を最後まで聞かず、市と「女の子の話」とやらをしに行ってしまった妲己は、そのことに非常に不満を唱えたが、政宗が理由を話すと雷に打たれたように暫く立ち尽くしたままだった。それから妲己は急に協力的になったのだ。
「お布団で寝たい!」と駄々を捏ねた卑弥呼を宥めすかしたのも妲己だった。
彼女にどんな変化があったのか、あったとしたらそれはもしかしたら市が関係しているのか、政宗も幸村も、無論卑弥呼も詳しいことは分からず仕舞いだったが、延々と続く蜀への道すがら妲己は一言だけぽつりと呟いたのだ。
「連れてきてしまったことを後悔してるけど、その分最後まで私が守るわ」
誰のことを言っているか、幸村には言わずもがなのことだった。
何もない筈の国境から遥か向こうに幾つもの陣幕が張られているのが見える。
自分達は宿舎代わりに使っていたが、場所は国境、しかも二、三という数ではない。
もしや戦かと思ったが、随分呑気そうな炊事の煙が上がっているのを見て、幸村は少しだけ胸を撫で下ろした。
常備軍を組織している三国の者達は、時折大規模な訓練をする。その延長だと思ったのだ。
しかし事態はそれほど簡単ではなかった。蜀の陣に近付いた政宗の許に一騎の武者が駆けてくる。
「趙雲殿!」
それが懐かしい顔であることに気付き、幸村がほっとしたような歓声を上げた。無論詳細は伏せてあったが、趙雲に幸村が書状を送ったのは随分前のことだ。
しかし趙雲は僅かに幸村に笑みを見せただけで、馬を降り大陸式の礼を政宗に示しつつ、言う。
「そなたらのことは殿にお知らせしていない。書簡が私宛だったので、すまぬが私の判断で内密に事を運ばせて貰った。そなた達のことは私と馬超殿、黄忠殿しか知らないことだ」
「馬超殿?」
「ここでは詳しい話は致しかねます。早く私の陣幕へ」
視線を滑らせた趙雲は、妲己の姿を見て一瞬全身を強張らせた。
「趙雲さん、久しぶり。元気だった?…ってやっぱ怒ってるわよね?」
おどけた口調の妲己の声が空々しく響く。が、趙雲の反応は妲己の予想外のものだった。
「…本当に連れてきて頂けるとは!有難い!」
「へ?」
「兎に角一刻も早く、見つからない内に此方へ」
殿と、諸葛亮殿に。
忠義一辺倒だった若い将軍は、幸村の聞き間違いでなければ確かにそう呟いた。
「おかしいのは蜀だけではなかったのか…」
政宗の話を聞いた馬超は、そう言って座り込んだ。
この世界全体に危機が及んでいるということより、自分達だけが特殊な状況に置かれている訳ではないことを、彼はまず安堵したようだった。
「ところで趙雲殿、随分物々しい軍事訓練のようじゃが?」
趙雲の話によると、幸村からの便りを受け取ってすぐに、彼は諸葛亮に申し出てこの訓練を始めたらしい。そこに馬超が便乗した。黄忠は城に控えているということだったが、言わば趙雲と馬超にとっては繋ぎ役、と言ったところなのだろう。
劉備や諸葛亮の命ではなく、彼らは個人的に情報を遣り取りしているに違いなかった。
「幸村殿からの書簡は良いきっかけでした。太公望殿の命を受けた我らは妲己を血眼で捜しています。すまないが、私としても未だ全面的に信頼は置けない」
妲己は、まあそりゃそうよね、と大人しく頷く。
「成程、劉備の安全の為と、もう一つは儂らの保護を兼ねておったか。礼を言う」
「いえ、何より私があの城に居たくなかった」
理由を聞いて全てが分かったような気がします。あの城の中は何処かおかしい。自分の思考すら同じところをぐるぐると堂々巡りするばかりで。
趙雲が、顔を上げ政宗を見た。座り込んだ馬超が息を呑む。
「見ませんでしたか?貴方も、あれを。自分が死ぬことを思い出す度に私は、これまで半身とも思ってきた槍を手離してしまいそうで、怖い」
長政達と語り合った時も、その話だけはしなかった。
どんな顔をして言えというのだ。あなたは義兄に攻められ小谷が陥落した時のことを見ましたか?などと。いや、それ以上に、愛した者をむざむざ大坂に奪われ天も掴めずに安寧に死んでいった話を、或いは決死の覚悟で城に篭り、自分を含めた大方の予想通りに本懐遂げられず死んでいった話を、そう易々と口には出来まい。
「ねえ、あれって…何?」
恐る恐る問い掛けた妲己に、皆の視線が集まる。
「…貴様の所為ではなかったのか?」
「ちょっと待って、政宗さん。それは、卑弥呼に聞かせたくない話、よね?」
「ああ、儂なら絶対に聞かせぬ」
「ん?うちのこと?何や?」
それまで大人しく馬超の兜を弄って、もさもさやーと喜んでいた卑弥呼が顔を上げた。
「趙雲さん、お願い。この子を貴方の信頼できる誰かに預けて」
「あ、ああ、そうしよう」
「…私は聞いても問題ないわよね?」
上司が実直だと部下までそうなるのかは定かではないが、趙雲が呼び付けた兵士は「俺にもこのくらいの妹がいるので」と僅かに緊張した面持ちで告げた後、慣れた様子で卑弥呼の手を引いて陣幕を出て行った。
その様子を見送った妲己は、皆の話を聞き終えると、信じらんない、と茫然と呟く。
「その台詞は此方が言いたいわ。儂は今まで貴様らが見せたものとばかり思っておったのじゃからな」
「だって、おかしいわ、そんなの!」
妲己の力ではそもそも政宗達を連れてくることなど出来なかった。遠呂智の真似をして命まで削ってるんじゃないかというくらいの力を使って、何とか一人だけ。それも成功する確率は五分五分だったのだ。
もしもわざわざ遠呂智がそんなことをしたのであれば
「絶望する、人もいる筈よね?戦えなくなる人だって。遠呂智様が欲したのは、真っ直ぐ自分に向かって来れるような強者よ?何故わざわざ皆にそんなものを見せる必要があるの?」
それは道理だった。
絶望から這い上がることで強くなる者もいようが、それは必ずしも全員に当て嵌まることではない。何より遠呂智は妲己すら預かり知らぬ理由で戦いそのものを望んでいたのだ。強者など誰でも良かった。
そんな風に考えている者が相手に悩む時間など与えるだろうか。
現に遠呂智は、この世界に飛ばされた皆が腰を落ちつける間もなく戦に巻き込んだではないか。
「皆ではない」
馬超が腕を組み替えながらぶっきらぼうに言う。
「劉備殿は見ておられません」
馬超の後を趙雲が続けた。
「黄忠殿は見た、と言ったが何処まで見たかは俺も知らぬ。だが彼は、俺達と同じものを見ていると思う。或いは知っているか、それも流言程度ではなく、近しく信頼できる者が彼に直接語ったか。関羽殿と張飛殿は分からん。だが」
諸葛亮殿は見ていないぞ。妙に確信の篭った目で、馬超はそう告げる。
「諸葛亮さんと話したの?…そんなことを?」
「いや、話してない。俺がそう思っただけだ。西涼の野獣とまで言われたこの俺の勘を信じろ」
「その勘にも根拠はあるのじゃろう?」
馬超が重苦しい溜息を吐いている間、皆が沈黙していた。
誰もが浅い息遣いだった。そう、あの時の軍議の時にも。
まるで甲乙つけがたい二つの策を引き合いに出して皆が軍略を述べあっているように最初は感じた。だが違う。
あったのは二つの策ではなく、二つの立場だったのだ。あれを見た者と、見ていない者。
「諸葛亮殿が一度だけ言ったことがある。俺が馬超そのものに見える、と」
そうだ、誰しもがそんなこと無造作に口に出来る訳はないのだ。
出来たのは馬超が知る限り、たった二人だけ。
「趙雲殿。いつだったか諸葛亮殿が、城下の花はいつ散るのかと言った時のことを覚えているか?奇妙に思わなかったか?」
「内容そのものはおかしいと思ったが、それは先程政宗殿が話された通りだと」
「こんな話などまともな神経で出来る内容ではないだろう。妲己ですら息を呑み、恐る恐る話す。仮にも軍師殿が簡単に顔色を変えてもらっては困るが」
あの時の彼は、随分澱みなく恐ろしいことを口走るものだと俺は不快感さえ覚えた。こいつは何も見ていないのではないか、という疑惑を抱いたのは、その時だ。
「敵だと思っている訳ではない。しかし今の俺には、諸葛亮殿より妲己の方が些かばかりでも信用に足る、とすら思える」
遠呂智との戦いの間、最後まで蜀に身を寄せていた幸村ですら、馬超に会うのは今日が初めてだった。
馬超はこの世界に飛ばされてから何をしていたのだろうと幸村は思う。ああ、そうだ。政宗に付いて行こうと思った時のこと。自分だって彼の腕を掴むのに何の躊躇もなかった。
蜀に骨を埋める気はなかったし、三成のいるかもしれぬ豊臣を頼っても、父が属しているであろう武田に身を寄せても良かった筈の自分は、ああもあっさりと政宗の腕を掴んだのだ。
多分馬超も思ったのだろう。まっさらなこの世界で、今度こそ自分だけの為に、思い通りの何かを貫きたいと。
やっと合流。
公式の設定無視して馬超を蜀に入れましたが、蜀を出た元蜀の将軍は、
馬超といい姜維といい、何か意味がありそうでどきどきします…。
公式設定はここから一層ぎゅんぎゅん無視しますので!すまない!
(11/03/23)