二十四、
かつて自分が存在していた時代は確かに乱世だった。覇権を争い志の名の元に、人が血で血を洗う乱世。
ではこの目まぐるしく動く状況は何と言えばいい。五虎将軍に加え奥州の王と呼ばれた見覚えない青年、彼の隣に座っている男には見覚えがある。遠呂智に捕まっていた自分を趙雲らと共に助けに来てくれた彼の名は何と言ったか。政宗の言葉に劉備は顔を覆った。
乱世以上の事態、自分はそれを示す名を知らぬ。いや、問題はそのことではなかった。何故私はそもそも兵を挙げたのだろう、と最近よく思うようになった――そうだ、それはあくまで最近の話なのだが。その最近、とやらが随分長く続いているような気がするのは今問題ではない。
中山靖王劉勝が末孫。誇らしげに名乗っていたそれは、本当に己の誇りであったのだろうか。漢王朝、それに異を唱えた奸雄達、己が守るべき宮廷の内部は臭い立つ程に腐敗していた、脆く脆く、それは自分のような何処の馬の骨とも知れぬ卑しき者が皇叔として入り込めるほどの脆さで。しかし理想と野望を飼い慣らし、蜀の地に依って立ち、皇帝にまで伸し上がった事実は、泡沫のように消え失せてしまった。
夢のようだ。
そこまで考えて劉備は己の頭が想像以上にぼんやりしていることを思い知る。
逆なのだ。夢のようなのは遠呂智作りしこの世界。この世界の空気は、希薄と呼ぶに相応しい何かを纏っている。胡蝶の夢。いや、夢と現実を取り違えたと言うには余りに現実感のないこの地平。
ならば私は何故、夢の中でまで尤もらしい理想で野心を覆い隠し兵を率いているのだろう。思考は堂々巡りのまま、やがて薄ぼんやりした何かに沈んでいく。
「私は、もう蜀の皇帝ではない。未だ玉座にしがみ付いているのは太公望殿の志に報いる為だ。妲己を追うという彼の意思に協力する間のこと。妲己さえ捕まれば、もう、私は」
「もう?劉備殿は如何なされるおつもりか」
劉備に起こった異変とはこれだったのか、と政宗は舌打ちをした。
強く言い返せなかったのは、同じ主としての同情だったのかもしれぬ。
彼は決して聖人君子ではないと思うが、もしかしたら本気でそれになれることを信じられる奇特な人間だったのだろう。
戦で兵を失う痛みも、這い上がることに何の意味があるのだと常に問い掛けられる疑問も、分かり過ぎるほどに分かる。政宗はそれを、時には目を瞑ってやり過ごし、時には正面から対峙し、裡に飼う野望と大義と愛着を宥めすかせて生きてきた。
乱世の先にある漢室復興、劉備の心に描かれたそれは、彼の理想郷だった。
彼が持っていたものは人徳でも何でもなく、野望を、理想や大義だと頑なに信じられる才能だけで、故に以前の彼は愛する将兵を戦場に送っても決して潰れなかった。その先に実現するであろう漢室を誰より愛することが出来るのは自分だという自負の元に。
左慈が構う訳だ、と政宗は思う。
仙人の行動原理など分からぬが、稚拙ながらも描いた理想を心の奥底から信じられる人間などそうそう居る筈はなく、それが少なくとも左慈という仙人の琴線に触れたのだろう。唯の興味本位だったのかもしれぬが。
だが、漢室も何もない遠呂智の世界で、彼の理想と大義は脆くも崩れた。彼が唯一その心に残したものは、愛着だ。
民への、兵への、将への、自分がこれまでにしてきた全て、蜀という地。
そもそも、劉備にとっての世界そのものが、彼の愛着の対象だったとしたら。
「儂とて分からんではないが」
劉備は失敗したのだ。政宗はこれまで抱えていた天下への野望と大義を、自分達をこの遠呂智世界で生き残らせる目的にすり替えることに成功したが、劉備はそれに失敗したのだ。
そんな者が抱える愛着による後悔と罪悪感はどれだけのものか、政宗には想像がつかない。
だが今は劉備に同情している暇はないのである。
政宗が欲しているのは、こんな世界でも唯々生きのびたいという単純で本能的な行動原理に立ち返ることのできる協力者だけだ。
槍を振り回したら倒せないかと冗談に紛れて、戦う意思を固められる成実。死にたいと思ったことなんかねえと叫んだ甘寧。臆面もなく幸福だと口にし顔を見合わせる浅井夫妻、趙雲と馬超はあれから少しずつ兵を集めている。あくまでも信頼できる、そして賛同してくれた者だけを。黄忠も共闘を約してくれた。
つまりは、そういう者達だ。
最後に自分がこの地平に立っていること、それ自体を、何の罪悪感もなくきちんと受け入れられる者だけ。
「協力が望めぬのであれば、せめて我らの邪魔はしないで頂きたい」
政宗の声に劉備は薄ぼんやりした顔を上げた。瞳には生気の欠片もなかった。
市に死を囁いた断罪者が劉備の元を訪れたら、彼は一も二もなくそれを受け入れるのだろう。それはぞっとしないが、そういう選択もあると思うし、仮にそうなったところで政宗には止める術はない。
「邪魔とは?」
「もしも戦になった時、傍観者を決め込んでくれと申し上げている――仮令儂らの陣に誰の姿があろうとも」
「…もしや妲己のことを言っているのか?」
ほう、と政宗は片眉を上げた。劉備は腑抜けたが決して馬鹿にはなっていないらしい。
黄忠が何か言いかけたが、結局は口を閉ざした。勿論政宗はそれ以上何も告げない。
「何故戦など起こそうとする?何故人は」
「生き残る為じゃ。それ以外に何がある」
「勝ち目などないものを」
「やってみねば分からん」
堂々巡りだ、席を蹴って立ち上がろうとした政宗の耳に、劉備のうつろな呟きが届いた。
「政宗殿、そなたは夢のようだとは思わぬのか?これは」
軍議中と称したが故に誰も開く筈のない扉が開かれ、諦めろ、という声が響いたのはその時だった。
「諦めろ、伊達政宗。彼にはこの世界を受け入れることなど到底出来ぬ」
関羽と張飛が腰を浮かす。身動ぎも出来ぬ趙雲の脇をすり抜け、茫然としたままの黄忠の、そして馬超の背後を通り、女が劉備に近付き囁く。来るべき者が来たのだ、と幸村は生唾を飲み込んだ。
一見するだけで分かる使い込まれた細剣を握り、頭上に光輪を頂いた「思ったのです、気高く慈母のような…それはまるで神のような」――間違いない、彼女が女カだ。
「この者達には何も分からぬ。だがお前にだけは分かる筈だ、劉玄徳」
ごめん!こんなとこで切っちゃった!
(11/03/30)