二十五、
「この者達には何も分からぬ。だがお前にだけは分かる筈だ、劉玄徳」
劉備が項垂れる。女カは一瞬己の右手を確かめるように視線を落とすと、静かに細身の剣の切っ先を劉備に向けた。
見ようによってはまるで脅しているかのような光景にも関わらず止める者は誰もいなかった。
劉備を兄と慕う義兄弟も。こんな状態になってまで未だ劉備の身を案じているかのように見えた趙雲でさえ、僅かに身動ぎしただけだった。
「神と為ることが約束された者には、な」
「神だと?!」
威嚇するかのように大声を張り上げた馬超には見向きもせず、彼女は続ける。
分かってはいたが、案外脆かったな。女カはそう独り言ちた後に、視線を劉備に向けた。
「お前は死して後神格を与えられる。仁の名の下、漢朝への忠義を貫いた名君としてな」
「仁の名…止めてくれ、私は」
「違うか?劉玄徳。神になることを約束された貴様にはどう足掻いてもこの世界を受け入れることなど出来まい?」
「私はそのような大人物ではない!私は……野望すら抱く唯の人だ!」
女カと劉備の他には誰一人言葉を発しなかったが、偉大なる大徳、劉備のことをそう信じ仕えてきた蜀将らが一斉に息を呑む気配がした。
その言葉に女カが薄く笑みを作ったのが分かったのは政宗だけだったかもしれない。
「何故劉備にその言葉を言わせようとする?」
政宗が女カに発した疑問の真意は恐らく誰にも分からなかっただろう。幸村でさえ、訝しがるように政宗を見た。
だがおかしいではないか。
野望をそのまま大義と理想に置き換えられる劉備の稀有な才能。それ故に劉備がこの遠呂智世界で生きることを放棄すること、それは女カにとって思惑通りの展開だった筈なのだ。
劉備の理想から野望を切り出したらどうなる?彼だって願うに違いない、普通の人間のように。
自分本位であろうが何だろうが生き延びたいと。
それは誰しもが持つ根源的な野望だからだ。そう望んだ者は死への誘いになかなか頷くことは出来ぬであろうに。
女カは、政宗の質問には答えなかった。
「私は、そんな大それたことなど考えていなかった!」
「諦めろ。信仰とはそうやって作られていく」
貴女も諦めたのか。その場にいた全員が浮かべた筈の問いを咄嗟に声に出せる者はいなかった。
女カが生きたのは彼らにとって神話の時代、確かめる術はない。
だが彼女同様神界に生きる太公望はかつて姜子牙という名の人間であったと歴史は言うではないか。何より女カの掲げた微動だにせぬ剣がそれを証明している気がした。
少なくともこの場において彼女は、間違いなく不条理を断罪する神に相違なかった。
「そうやって諦めた貴女が、何故我々に同じことを強いて消そうとするのですか?」
幸村の声は落ち着いたものだった。さすがだ、と政宗は刮目する。腹の据わった幸村は、本当に強い。
「私が作り上げた世界に生きる者、或いはその影響を受けながら日ノ本という異国で生きる者。それらが悪しき遠呂智の手により分かたれ異世界に連れて来られた。それを排斥し正しい歴史を取り戻そうとすることは間違っていないと思うが?」
日ノ本には確固たる中華の神など伝わらなかった。あくまでも、正式には、伝わらなかった。
だからこそ、その思想は深く深く文化に根付いたのだ。
彼の国の書物を有難がり、大陸の装飾具を競って集めあう、そんなものの中にすら彼らが息づいていたのであれば逃げ場はない。
消されるのだ、これまでの戦も、いや存在すら消され、後には荒涼たる地が残るだけとなる。
「なれば、卑弥呼は」
女カに言い返すことも出来ず只管に息を詰めていた諸将の中、政宗だけが腕を組んだまま不遜な顔付きで女カの話を聞いていた。
幸村は、懸命に考える。世界の範疇。そこから外れてしまおう。儂らの世界を作ってしまおう、と政宗は言ったのだ。
幸村のいた時代から遥か昔に生きた少女。あの娘は、何者だ。
「あ奴は何故連れて来られた。遠呂智復活の為か?ああ、表向きはそうじゃろうな。しかし何故前もって、卑弥呼を連れ来る妲己の行動を貴様らは止めなかった?遠呂智の消滅は貴様が望んだことであろう?」
大陸に生きる者達、その影響を受け日ノ本で生きる者達、そして弾かれたとはいえ未だ前の世界を引き摺る妲己。
だが、卑弥呼だけは違う。
「止めなかったのではない、止められなかったのじゃろう?」
神とは存外不便じゃな、政宗は声を殺して嗤う。
「貴様らの世界の範疇とやらの外に純然と在る卑弥呼には、絶対に手出しが出来ぬ。それで妲己を捕えよと太公望を通じて劉備を唆したのか?妲己はついでのこと、妲己と共にいるであろう卑弥呼を捕え、遠呂智にそうするつもりであったようにあの娘を永久に牢にでも繋ぐか?貴様が恐れたのは、人と卑弥呼が交わること。前の世界で神であった卑弥呼を人が崇め出すこと。そんなことはせんでも、異質の世界に存在していた者達が触れ合い、少しずつ構築される新たな世界は、もう貴様の手には負えまい?」
「成程、妲己を抱きこんだとは言え、お前はなかなか頭が良いようだ。真っ先に警戒すべき貴様を見逃したのは、私の過失だな」
「神をも、出し抜いたという訳じゃな。お褒めに預かり恐悦至極に存ずる」
女カの顔が歪んだ。それは始めて見る神の動揺だった。
「儂らはもう貴様の力を持ってしては消せぬぞ?」
「力尽く、という人の子が好む手段があろう?同じだ、消すことも、殺すことも今となっては」
劉備に向けられていた刀の切っ先が翻って政宗を捕える。先端が僅かに揺れていた。
「あちらには儂らの片割れが存在しているのだろう?」
「片割れ?違うな、此処にいるお前らが紛い物だ、私にとってはな」
「どちらでも良い。世界を消すのは神でも無理なのであろう?遠呂智の作りし世と前の世界、永久に袂を分かつ訳にはいかぬのか?儂らはどうせ、もう戻れぬ。ならば互いに不干渉を決め込めば話は簡単じゃ」
「…交渉は決裂のようだな」
そう言った女カは、しかし静かに剣を収めた。泣いているみたいだ、幸村は突如沸き起こった同情にも似た気持ちをやや持て余し気味にそう思う。
政宗が必死で対峙しているのは大いなる神なのかもしれぬが、その神こそが、まるで戦う術を持たぬ、か弱い女のようではないか。
「何故じゃ?」
「使命を持った者を神と呼ぶ。違うか?奥州の王よ」
彼女の使命は、この明らかに不条理な世界を正すことなのだ。
こうして飛ばされた者達を再び己の範疇に戻す。信玄も謙信も信長も――少なくとも幸村が生きていた時代にはもう過去の人だった者達と袂を分かち、与えられた世で歴史を作る。恐らくは遠呂智の作りし世界の記憶を持たぬ真田幸村として。
だがそれは、今ここにいる自分でなくても良いではないか。
だって私は、あちらの世界にいるもう一人の自分を確かに見たのだから。
恐ろしいだけと思っていたその幻視が、今こうして自分を奮い立たせることになるなど、一体あの頃の誰が想像しただろう。
政宗の言うことは理に適っているように幸村には聞こえた。何故存在を消されてまでも戻る必要がある?そして――女カは本当にそれを望んでいるのだろうか、という違和感。
暫く政宗を睨みつけていた女カが僅かに俯き囁く。
「神など、所詮人が生み出した偶像だ。真の創造主は神などにはならぬのだよ」
まるで汚らわしい呪いの言葉を吐くように、彼女は続ける。
そして――偶像にだって意地はあるのだ、だとしたら。
「自分が生み出したものを愛さぬ神など、何処にいる?」
ああ、そうか。かつての自分も、今こんな世界でもがいている自分も。
自嘲めいた笑いと共に呟かれた言葉を聞いて、幸村は、自分は確かに、あますところなく、世界に愛されていたのだと知った。
恐らく世界は敵ではないし、牙をむくなんてこと、しません。
(11/04/01)