二十六、
あの軍議の場に諸葛亮を呼ばなかったのは、馬超の判断だ。
関羽と張飛が最早何を考え劉備の傍にいるかは分からなかったが、劉備が頷けば彼らも納得し、劉備が否定すれば彼らは何処までも劉備と行動を共にするであろうと馬超は考えていた。
「ならば敵は一人ずつ懐柔した方が良い」
劉備ら義兄弟と諸葛亮を纏めて納得させるのは、至難の業だと思った。主と、志を同じくした筈の軍師を敵呼ばわりした馬超に、趙雲は何を考えたか、反論一つしなかった。
馬超は、諸葛亮の政務室の扉を叩く。
劉備の賛同が得られなかった今、諸葛亮が自分達のやろうとしていることを肯定するとは考えられなかったが、劉備の説得を政宗達に任せる形になった以上、諸葛亮には自分が話すことが正しいことのように思えたからだ。
遠呂智が倒れて戦がなくなった軍師の肩には、それでも辛うじて形を保ち続けている蜀の内政の全てがかかっている筈だった――政宗の言葉を信じるのであれば、それにどれだけの意味があるかは馬超には到底分からなかったが。
政宗との話、そして先程の劉備のこと、女カが現れたこと。
さて何処から話すべきかと馴染み深い軍師の顔を見詰めながら暫く躊躇した馬超だったが、機先を制したのは、諸葛亮の方だった。相変わらずゆったりと羽扇をなびかせ、涼しい顔で彼は言う。
「何故馬超殿は未だ此処にいらっしゃるのですか?」
勿論これは、馬超が自分の政務室に来たことを言っているのではないだろう。
諸葛亮の忠義は、馬超からすれば信じられないほど、篤い。蜀の皇帝の座から降りる、劉備がそう言った時、馬超も趙雲も黄忠も、どころか義兄弟ですら反対したが、諸葛亮だけは只一言呟いただけだった。
「それが殿の御意志であれば」
あの時の憤りを呑み込めなかった自分達は、少しずつ劉備と距離を置き、必死に呑み込んだ関羽と張飛は劉備を選んだ。
諸葛亮が選んだものは何だったのだろうと馬超は思う。それは忠義なのか?
「俺はその質問をそのまま軍師殿にお返ししたいが」
「我が殿が皇帝を止めるその瞬間まで、私はあの方の軍師ですから」
諸葛亮の傍らに静かに立っていた月英が、馬超に困惑の視線を向けた。
それに一つ頷き、馬超は話し出す。これまでのことを全て。
政宗のように上手に説明できているかどうかは分からなかったが、諸葛亮と月英であれば、理解はしてくれると、そう思ったのだ。
「…馬超殿は、かつての世界で本当に我が蜀が天下をとれたとお思いですか?」
しかし諸葛亮は、馬超の話を聞いても尚、そんなことを言う。我が蜀、その言葉に違和感を覚えながらも、馬超は力強く頷く。
思っていたか?ああ、思っていたとも。
白状するのであれば、かつての自分の天など、中央から遠く離れた西涼の地、そこだけだった。張魯に降り、蜀に降り、馬超の天は徐々に広がっていったのだ。果てなど分かろう筈もない。分からぬものは量れない、楽天的にもなろう。
だから、天才とまで言われた軍師殿の天がどれだけ広かったか、自分には分からない。
「簡雍殿は素晴らしい方でした。しかしその死は私にとって余りにも早かった。孫乾殿も病に倒れ、私は彼を看取っております。前の世界で」
そうだ、諸葛亮は馬超のように己の死に様など知らないだろうが、それでも記憶はあるのだ。自分よりも少しだけ先の時代から、彼は遠呂智世界にやってきたのかもしれないと馬超は思う。
少なくとも――今は皆が劉備のことを当たり前のように蜀漢の皇帝と呼ぶ。もしかしたらそう言い出したのは諸葛亮だったのだろう――少なくとも馬超は、劉備が皇帝になった事実など、知らない。
「私は、ほっとしたのですよ、馬超殿。この世界にはホウ統殿も馬良殿もいた。馬超殿には分からないでしょうが」
「分からないから、何だ。分かりあえなければ話す価値もないとでも言いたいのか?」
「私の考えることは、人を殺す方法に過ぎません。それを実行するのはあなた方武官の仕事です」
文官と武官の諍いなど、古来よりずっとあったことだ。馬超ですら時々思った。
したり顔で軍略を口にする彼らが、敵兵を直接斬ることなどない。城に篭って、身の危険も部下の危険も知らずに、口だけを武器にのうのうと生き延びる奴ら。蜀にもそんな文官は掃いて捨てるほど、居た。
だが、諸葛亮達は違ったではないか。
簡雍も馬良も、時には必死で戦場に立ち、孫乾はいつだって危険な他国への使者を自ら買って出た。交渉が決裂すればその場で首を掻き切られることが珍しくなかったあの世界で、和睦を、援軍の要請を叫び続けた。ホウ統ですら成都討伐の際には陣頭に立ったと言うではないか。勿論その時蜀将ではなかった馬超は細かいことなど知らない。
だが、自分が知る限り、諸葛亮も彼らと同じく、事態の許す限り戦場に立っていた。信頼できる軍師というのは、そういうものだと思っていたし、そうあるべきだと、何の疑問も持たなかった。
「一番安全な本陣脇で」
諸葛亮の静かな声音は、馬超にとって不気味に過ぎる。
「貴方達の命を盾にしたままで。馬超殿、文官の仕事とは主に何であるかご存知ですか?」
「…いや、知らん。主の志に則って国の方針を決めるとか、そういうことではないのか?」
「それはあくまで非常時のこと。私達の基本的な仕事は軍規を確固たるものにし、人を裁くことです」
分かりますか?戦に出たからと言って敵と切り結ぶことはない。安全な場所から敵を殺す方法を考え、人々を規制する為の枠組みを作り、己の判断で諍いを収める。
それにどんな意味があるか。
「私が斬るのは、私が罪人と決めた者だけです」
ああ、馬超殿。私は本当にほっとしたのですよ。
「つまりそれは、戦が、国が、民の訴えの全てが私の采配で動くということに他なりません」
「…それは重大過ぎる任だと思うが、それが文官の仕事なのだろう?」
ホウ統殿も簡雍殿も、私が後継者として見込んだ馬良殿もいなくなった後で、私一人が負った任です。
「そんな孤独の内に行われる私の役目を想像なさってください。女カが現れたと仰いましたね?私は本当に嬉しかったのです」
「何故だ?」
「私は神ではなかったのだと、心底安心したのですよ」
言葉を失った馬超に、諸葛亮は畳みかけるように言う。
「恐らく馬超殿の仰ることは正しいのでしょう。もう私には自分が執り行っている政務の内容すら完全に把握出来ない。しかし、おぼろげには分かっています。此方はかつての世界で私が一日に裁いた訴訟の数です」
諸葛亮が卓の上に幾つかの木簡を並べるのを、馬超はぼんやりと見ていた。
「そして此方は、遠呂智の世界に来てからのもの。どうぞご覧ください」
「良いのか、見ても」
「ええ、どうぞ」
そっと紐解いたそれには、何一つ書かれてなどいなかった。削られた木の香りさえ立ち上りそうな、まっさらな木簡。
「我が殿は、皇帝の座を放棄すると仰る。戦などは最早起こらない。民は飢えることなく、争うことなく、黙々と毎日を過ごす」
だが、それは紛いものの平和なのだ。馬超はそう信じている。
戦に明け暮れたい訳ではないが、自分が求めたのはそんな毎日ではない。ましてやその先に用意されているであろう、神の手による緩やかな死など望むべくもなかった。
「劉備殿の治世は望めませんでしたが、それ以外の私の理想の全てが、ここにはあるのです」
あの散ることもなく咲き誇っている花だって。
羽扇の先に目を遣ると、城下の桃が目に映る。枝先をそっと風に揺らして。
「貴方に言われて気付きました。散らぬ花はないのです。しかし私は、それについて考えたことなどなかった」
「初めに俺達にそう言ったのは軍師殿だったではないか」
「桃源郷の花は、散ることはないと言いますから」
諸葛亮は、そう言って目を伏せた。
散らぬ花というのは、確かに美しい光景かもしれぬが。
心地良い風の中で一片の花弁すら散らさずに咲き誇っている桃の花を馬超は思い浮かべたが、それは随分滑稽な風景のような気がした。
ずっと黙り込んで馬超と諸葛亮の話を聞いていた月英は、馬超が退室してからも、一言も言葉を発しなかった。
諸葛亮は弁解するように傍らの妻に話しかける。
「月英、これが私の理想だったのです。分かってくれとは言いません」
彼の傍で、時には武器すら手にして夫の志を守ってきた聡明な妻は、頷いた。
「孔明様が何故劉備殿の誘いを受け、その許でどんな思いで戦ってきたのか、私には到底存じ上げません」
彼女は立ち上がって戈を手に持つ。
「しかしそれは同じこと。孔明様は、何故私が女だてらに戈を掲げ戦場を這い回るか、ご存じないのでしょう」
そう言って此方を見る月英の姿には戈が似合っていた。確かに、誂えたもののように。
かつての世界で筆を握る自分の姿もそうであったら良かったと諸葛亮は思う。
「諍いのない安寧たる社会、実に結構。しかし私は、どんな世界からも武器も訴えもなくなることはないと信じております」
「何故ですか?」
「孔明様、それらは本当に争いの象徴ですか?それしか意味はないと?」
月英はそれだけを言って、諸葛亮に背を向ける。政務室の扉に手をかけようとする彼女に、諸葛亮は叫ぶように言った。
「月英。私は、間違っていたのでしょうか?」
「さあ、私は守りに行くだけです。この戈で守れる一番簡単なものを」
馬超が放り出した木簡と、月英が後ろ手に締めた扉を眺めて、諸葛亮は羽扇を握り締めた。
どうしても外せないので少しだけ蜀のターン!
遠呂智世界に飛ばされたのは、馬超の場合、蜀に降って馴染んだ頃。
孔明は劉備が蜀漢の皇帝を名乗った後くらいだと思っとります。
とは言え、馬超はその後自分の最期の時までの記憶はあることになってるので、
「劉備が皇帝になった事実を知らない」というのは馬超の没年を考えればおかしいのですけど、
馬超はあの瞬間に全ての事象を認知した訳ではないこと、
劉備が皇帝になるというのは大事件とはいえ、馬超の走馬灯(的な何か)に
組み込まれる程のものではなかったのではないかと思い、
馬超は、劉備が皇帝という位についた云々は知らないということにしました。
生臭い話をすれば、馬超と韓信は似ている…なんかこう、イメージが…
個人的に完璧すぎる孔明には違和感を覚える上に、馬超を贔屓したい気持ちは割と強めなので、
この話自体が孔明の罠ってことはありません。安心して!
(11/04/04)