親よりも兄弟よりも、他のどの友達よりも、自分の名前を今までで一番呼んだのは政宗ではなかっただろうか。それはまだ幸村が弁丸だった頃からずっと。
「弁丸?どうしたのじゃ」「こっちへ来い、弁丸」今はもう記憶の片隅に何気なく置かれているだけの自分の幼名を思い出す時、そこにまだ幼かった政宗の声が混ざるのを、幸村は自覚しない訳にはいかない。
勿論、その名を付けてくれた両親や共に育ってきた兄が、自分の名を慈しむように呼んでくれたことを覚えていないというのではない。胸がじんわりするという言葉がぴったりくるような肉親の愛情、それは幸村にとって確かに掛け替えのないものであるのだが、家族に呼ばれる自分の名と、政宗が口にする自分の名は全く別物だとも思う。
相手の名を呼ぶ喜び。そしてたったそれだけのことがこんなにも様々な意味を持っているということ。政宗とただならぬ仲になった幸村がまず学んだのは、そのことだったかもしれぬ。くすくすと笑いが漏れそうな甘さを含んだ声で囁かれることもあるし、必死で搾り出すような耐え難い苦痛の中縋る、そんな声で呼ばれたこともあった。
「まさむねどの」
かと思えば、何の感情も篭らぬ乾いた声で、政宗は幸村を呼ぶ。政宗の声でただ呟かれるだけの自分の名前を聞くと、幸村は酷く懐かしい気持ちになる。
「幸村」「はい、政宗どの」会話はこれ以上何一つ続かない。ほんの一瞬、政宗がほっとしたような顔をするだけだ。「ゆきむら」「まさむねどの」互いに互いを呼び合うという最も原始的なコミュニケーションはまるで手慰みの遊びのようで、それはやがて心地良さを引き出し、別の戯れへのきっかけになってしまう。
「まさむねどの」
だけど政宗によって紡がれる自分の名前の中で、あの懐かしさだけは別格だ。自分の名を政宗が口にする、その喜び、くすぐったさ、ちょっとした恐れとか、そういう全てのものをひっくるめても尚余りあるあの懐かしさ。
多分、政宗はずっとずっと昔からあんな風に自分を呼んでいた。それはまだ恋とか愛とかなんてなかった、弁丸と梵天丸だけのちっぽけな果てのない世界の中で。
「まさむねどの」
政宗は自分のことを確認していたのだ、と思う。目の前にいるのが幸村だと。
年月が経つごとにその幸村に政宗は勝手にどんどん付加価値を付けて、そうして二人の距離は徐々に近くなっていったのだけれど。それでも政宗は確認せざるを得なかったのだろう。目の前にいるのが、他でもない、自分が愛した幸村だと。
横にいる幸村を見て、名を呼んで呼ばれて、それでやっと息が吐ける。それはなんて純粋で稚拙な好意なのだろう。愛しているなどと囁くよりも余程痛々しい睦言ではないか。
「まさむねどの」
では、ここで返事も貰えずこっそり彼の人の名を呟いている自分は何なのか。
一人ぼっちの部屋に響く愛しい人の名を呼ぶ自分の声。何か足りない。分かっている、「ゆきむら」と返すその声だけが足りないのだ。
私は仮初めの孤独を確認したい訳ではないのです。そう思っている筈なのに、耳から入ってくる自分の声は何故かこんなに優しい。「幸村」と少しだけ不安そうに自分を呼ぶ政宗に、せめてこんな声で返してあげられたら、あの人はもっと美しく微笑んでくれるのだろうか。
一緒にいられる幸せは本当に計り知れないほどで、こうして返ってこない返事を思いながら想い人の名を呼ぶことは、それを実感させてくれる。
目の前に政宗どのがいないことなど、どうでも良いのです。ああ、それは勿論目の前に、いて、欲しいのですけど。
「まさむねどの」幸村の周りの空気をささやかに震わすだけのその音は、吃驚するくらいそっくりだ。愛しさと懐かしさと不安とが、全く同じ割合で混ぜ込まれていると思えるくらい、そっくりだ、政宗が自分を呼ぶ声に。長い時間をかけて梵天丸が、政宗が、こっそり教えてくれたその呼び方を、こうして自分がすんなり出来ていることが、幸村は嬉しくて仕方がない。
純粋で稚拙な好意?でも、故にそれはとてもとても強い。例えば此処にはあなたはいないけれど、それを嘆く必要なんて全くないほどに。そう抜け抜けと(こっそり、心の中でだったら)惚気られる自分が可笑しくて、幸村は笑いながら口にし続ける。ねえ、まさむねどの。互いの名を呼び合って、固く手を握り合ったあの頃と、私達は何一つ変わっていない。
「まさむねどの」
もう一度だけ、笑みと共に囁くようにそう言って、幸村は携帯を机に置いた。本当は声が聞きたいと思ったのですけど、満足してしまいました。
いつもいつも会えるとは限らない。そんな贅沢な不満を幸福に変える方法を、あなたはあんな子供の頃から私に教えてくれていた訳で。小さなあなたが教えてくれたお呪いは、効果覿面ですね。だって、ねえまさむねどの。私は、もう何処も寂しくないのですから。
でも繰り返された慣れが安心を呼ぶことだって多分あるのです。
(08/09/20)